これまでの「今日のコラム」(2001年 8月分)

8月2日(木)  涼しいところで休養をしてきた。妻と二人でこんなにのんびりして休んだことは、最近殆ど思い当たらない。どんなにのんびりかというと、何もノルマを持たず、動かず、励まず、勿論、働かず。丸一日、小林秀雄と坂崎乙郎の本を交互に読み、飽きたら、池田満寿夫やムンクの版画を集めた近所の美術館をのぞく。(客はわれわれの二人だけ)進行が急に遅くなった時間の中で、非日常を楽しんだ。しかし、考えてみるとこれもわずか一日半。休むことには苦手な体質は拭い難しで、休みが何となくぎこちない。非日常としては満喫できる悠々とした時間を、日常となった場合に同じように楽しむことが出来るかは疑問がある。本を読むだけ、評論するだけの傍観者は好きではないのだ。今は何と云っても実行者がいい。動きたいところを、無理をして止まることもない。・・また次なる励みが始まる・・。
8月3日(金) ゴッホの書簡集や関連する本を読んでいると、画家は描いた絵を見るだけでは全人格は分からないのでないかと思う。また書いた文章を読むだけでも人のほんの一面しか分からない。大体、人間一人の全体がそう簡単に”分かる”ものでもないし、評価するなど更におこがましい。ゴッホが、相当な読書家であり、文章家であり、また理論家であったという新しい知識は得たが、やはりあの感情を生にぶつけた作品からあれこれ理屈を並べる絵画論は想像できない。水面に顔をみせる氷山のように、見えるところは全体のほんの一部と思って、他人とは付き合っていかなければ相手を誤解してしまうな・・と思わせるゴッホの手紙であった。
8月4日(土) 人間の心理というのは人類の歴史とともに常に人間にとって大きな関心事であったと思われるが、心が学問として研究対象となったのは驚くほど最近のようだ。「ジーキル博士とハイド氏」(1886年ステイーブンソン作)は二重人格を取り上げた小説として有名であるが、それ以前には二重人格の概念さえ存在しなかった。心理学者(精神分析の創始者)フロイト(1856-1939)は、今ではポピュラーな「夢の解釈」を1900年に発表したが、当時の精神科の教授はフロイトを気狂い扱いして無視されたと云われる。精神分析はまだまだ歴史が浅い。現代の学説も発展途上ということであろう。病んだ精神の分析も重要だが、自分で最大能力を発揮する意識の構造なども、もっと研究されるに違いない。ただ、研究を待つまでもなく、古来、達人といわれる人は自分自身の心理構造に関して、自らが一番精通していたように思える。
8月5日(日) 自転車を手に入れたいと思っている。これまでは自転車に興味はなかったが、人にアドバイスをもらい調べてみると自転車も奥が深い。フランスのプジョーというと自動車メーカーだが、創業時は自転車メーカーで今もすばらしい自転車を作る。メルセデスやBMWは環境問題の一環として自転車を生産している。ポルシェ(ドイツ)、ビアンキ(イタリア)など海外の自転車はデザインを見ているだけで楽しい。自転車というのは機能美を追求した最も身近なメカの一つでないかと思える。実用的には、私の場合、テニスや図書館にいったり少し外出する時の電車、地下鉄の往復運賃を考えると、3−4ヶ月、長くても8−10ヶ月で自転車の購入代は償却してしまう。(購入するのは実用機だ)今回はyahoo-auctionで競り落とそうかと張り切っているが・・・。
8月6日(月) 今日は涼しい一日であったが、夏バテだろうか・・。考えるとか、文章を書くのが億劫でしようがない。こういうときには、ただ無心に手を動かすのが一番良い。ゴッホは手紙の中で「靴を作るような調子で、何ら芸術的な配慮なしに仕事すべきだと信じて疑わなくなった・・。」と記しているが、絵を描くことに限らず、モノ作りは、余計なことをあれこれ考えずに、手だけが自然に動いてくれるのが理想だ。靴屋のようにはいかないが、先日来、コーギーのヤジロベエーだとか、風車とか、手作り作品だけは進展しているように見える。その分、HPは代わり映えしない、「今日の作品」は更改されないのが寂しい。どうも、無心なのはいいが、無目的すぎるので心配になってきた・・。
8月7日(火) 自転車に興味を持つと、道路脇に止めてある自転車の一台、一台が突如として新しい世界に早代わりするからおかしい。これはフロントサスペンションがあるとか、何段変速だとか、サイズは、メーカーは・・。前は邪魔にしかならなかった自転車置き場が展示会場の様相となる。自分が自転車を所蔵するつもりになると、カタログで高級機種を楽しむのとまた違った見方もでてくる。鍵を二重にしてあるか、きれいに手入れをしているかどうかも気になる。一般機種と、高級機種とではどちらが盗まれ難いのか、盗人は手入れをしたものとしないものではどちらを選ぶかなどと考える。自転車の場合は、まず盗みを心配しなければならないのは悲しい現実である。新たな世界に興味を持つと、また新たな悩みが発生し、工夫する楽しみが増える。
8月8日(水) 歴史上の人物の「享年」を自分の歳と比べてみるとき、愕然として何かじっとしてはいられない気分になることがある。別に対抗しようというのでなく、まだやりたいことがいっぱいあるのに、残り時間が限られているを思い知らされるのだ。坂本龍馬が32歳、宮沢賢治が37歳(ゴッホと同じ)などは、元々、早逝のイメージがあるからそんなものかと思う。けれども、夏目漱石、聖徳太子は49歳、年寄りだと思っていた芭蕉が50歳、ベートーベンが57歳で亡くなっているのをみるとオヤオヤ・・。自分と同じ歳(60)となると、日蓮、森鴎外。人はそれぞれに生きた内容がある。その中身と年月とは関係がないようだ。ゴッホが画家として絵を描いた期間は(一枚も売れなかったが)10年間。亡くなる前の70日足らずの間に90点の油彩画を残したという。時間はあると思えばあるのかも知れない。
8月9日(木) 野次馬根性で「小泉メールマガジン」というのをとっている。期待する方が悪いが、人気ほどにマガジンの内容がないと思っていたが、8月8日ー16日合併号に小泉首相の「子供のころの夏休みの思い出」が結構面白い。セミとりのテクニックや、セミの脱皮を観察した様子が体験者でないと表現できない言葉で書かれていた。勿論、超多忙のこと、車の中などで記者に口頭でしゃべった話を編集したに違いないが、少なくとも本人の生の言葉がみられた。この種のマガジンは、誰が筆者になっても同じという内容ではつまらない。それと、どんな大臣であろうとも自慢話はすべて読む気がしない。「夏休みの思い出」はその点、テーマが良かったのかも知れない。ところで、首相の云う「竹竿に針金を丸くうちわのように結び、そこに張り たてのクモの巣をつける。」というセミとり道具の技術は今の子供に伝承されているだろうか・・?
8月10日(金) 百日紅ーサルスベリと読む。中国では次から次に百日間も紅の花を咲かせるというので「百日紅」という名がつけられたという。日本語の「サルスベリ」は、幹がつるつるして猿でさえ滑りそうな樹として名付けられているから、花には注目しなかったのだろうか。いま、満開のサルスベリの花が街にも彩りを添えてくれる。こんなに暑い最中にピンクの花が咲いているのは夾竹桃ぐらいかと近寄ってみると、これが正に百日紅の幹。ピンクもいいが、白い花のサルスベリも好きだ。公園では、雨が降らないせいか、ハナミズキの樹が枯れかかっていた。こんな時にもしっかりと花を咲かせている百日紅がけなげに思えてきた。

8月11日(土) 人は、それぞれに、好き嫌い、得手不得手があり、育ちや経験も違う。また善悪の考え方や価値観も異なっている。けれども、みんなが”違う”ということを認め合う=こんな単純なことが案外に難しい。違うことを認めるということは、相手と自分の双方の考えを理解することにつながる。ところが、相手の云うことに聞く耳持たぬというのは身近にしばしば見かけるところでもある。大人世界でも立派なことは云えないが、子供の教育もまだまだ画一的に思える。「みんなが違う」「それであなたはどうする、どう考える」という視点が足りないように感じるが、実体はどうなのだろうか・・。
8月12日(日) 「今日の作品」に自作の「かざぐるま」を入れた。絵を描くことも、パソコンの動画などを作ることも好きだが、夏休みの工作風に、自分でナイフやヤスリを使って物を作ることが何より好きなのだと思う。羽は透明のアクリル板製で12枚。わずかな風でも非常にゆっくりと連続して回る。3mm径の主軸の支えにはミニチェアベアリングを使ったり、回転する羽のバランスを取ったり(回転体として均等に回るように個々の羽の重量を調整すること)したところが、元回転機のエンジニアの名残だ。4mmの真鍮(黄銅)パイプの支柱と,ベースのやはり黄銅製の50mm直方体ブロックは、以前手元にあったものを使った。何の役にも立たないものかも知れないけれど、家に来る小さな子供達が、目を輝かせて見てくれるのが作りがいとなる。
8月13日(月) 「ホームページとは所詮自己満足である(孔子)」などというふざけたコメントを見たが、正に自己満足であるからこそ楽しい。他人様の役に立つ、教育する、利益を与えるためのHPなどがあれば、これは怪しい。絵画の場合も徹底的な自己満足を追求した作品が感動を呼ぶ。ご注文に応じて制作しましたという絵など面白くない。ただ、絵にしてもホームページにしても、当人が本当に満足できるものを作り上げるなど容易なことではないだろう。他人の思惑に左右されずに自分の物を作り出す、けれども、独りよがりは駄目・・と、この辺のところが非常に難しい。とにかく、自分自身で表現することが面白いのは確かだ。満足度を30%から60%に上げる挑戦・・自分で云えば、そんなところかも知れない。
8月14日(火) 一昨日の日曜日に待望の(大袈裟だな!)自転車を購入し、いつになく浮き浮きしている。買った店から自分の家まで10kmの距離を乗って帰った時も快適であったが、今日も、お盆休みで車も人も少ない都心にでかけて絶好のサイクリングを満喫した。暑さも気にならなかったのは自転車が気に入ったからだろう。云うまでもなく自転車を動かすのは自分の筋力だけ、ガソリンも使わなければ、排気ガスもださない。エコロジカル(環境保護的)であると同時に、この機械は肉体の力を極めて上手に活用して自力の行動範囲を何倍にも広げる。何よりこれまでは自動車で瞬時に通りすぎた街路や入り込むこともなかった路地が自分の庭のように身近になる。自転車散歩で、また新たな視点がでてきそうで楽しみだ。
8月15日(水) 終戦記念日。この夏、話題になった「ほたる」という映画は、終戦末期の神風特攻隊にまつわるものだ。一度出動命令が出ると二度と生きては帰れない特攻隊員。明日の出発が決まったときに、世話になった宿の母親代わりの女性に、死んだら、蛍になって帰ってくるから追い払わないでと頼む。翌日の夜、大きなほたるがその宿に懐かしそうに戻ってきたというエピソードから「ほたる」というタイトルが付けられた。特攻隊といえばもう一つ海軍の人間魚雷があった。これははじめから人間が運転して敵艦に体当たりするためだけに設計された非情な潜行艇。広島の江田島にある旧海軍兵学校(博物館)で、この人間魚雷の資料がみられる。ここには20歳前後の若き特攻隊員の遺書も展示されており、涙なしには読むことの出来ない。「過去の現実」をみることは改めて今ある意味を考えさせる・・。
8月16日(木) パウル・クレー(1879-1940)は私の大好きな画家の一人である。一見、幼児が描きそうな絵画の中に独自な点・線・面が動き、色彩が踊る。ポエジーと知性が合わさった創造物にはいつも感動させられる。最近、クレーが晩年に「現世のこと、それはぼくには不可解だ」という言葉を残していることを知った。クレーというとバウハウスという最高の美術学校の教授をしていたという認識があるから、さぞや輝かしい一生だったのだろうと思っていたのだがそうでもない。確かにバウハウス時代に名声を得たが、ヒトラーの先端的な美術への弾圧によって”現世”からは遠ざかる。そして亡くなるまで開拓者であり続けた。名誉に安穏としていた訳ではなかった。時代を超えて訴えるものは、現世の立場とは全く無関係であるのはどんな分野でも同じだろう。
8月17日(金) 「アンビヴァレンツ」(Ambivalenz)という言葉がある。最近は日本語としても通用するようで、新明解によれば「同一の対象に対して作用する全く相反する感情の併存と、両者の間の激しい揺れ」と解説されている。「愛がしばしば憎しみを伴うのは何故か・・」というテーマに関連してフロイトが構築した概念であるようだ。深層心理として、同一人物(例えば父親でもよい)に対する愛情と敵意といった感情が併存するのは分からないでもない。アンビヴァレンツはまた芸術作品に対しても適応されるところが面白い。芸術という評価基準の定まらない対象はその時の感覚や思いこみで、快感=愛と、不快感=憎しみとが交叉することがある。はじめは全く馴染めなかったものが、何度か接する内に宝物のように思えてくるという体験をすることもあるだろう。私は、人間に対しても、芸術作品についても、、意識して良いところ・学ぶべき所、つまり”愛”側に視点を当てるように努めてみる。対象物はその方が輝いて見えるのは間違いない・・。
8月18日(土) 朝、目を覚ましてみると雨が降っている。昨夜の天気予報では曇り。雨の傘マークなど一つもなかったのに・・。今朝の予報は「曇り時々雨」に変更された。はじめて自転車でテニスにいくのを楽しみにしていたがこれもお預け。「天気予報」というと母方の祖父母を思い出す。母が子供の頃、父親は気象台に勤めていた。気象台の予報が外れると近所の人から「天気予報は下駄を放り投げて(裏表で)晴れか、雨か見た方がずーとよく当たるね・・」とからかわれたという話を祖母からよく聞かされた。これは大正時代のことだけれども、どうも今の時代の天気予報も大して進歩していない?その割にテレビの気象予報士の方は予報が外れても平気な顔をしているように見える。・・今、外は雨が止んでどんよりした曇り空になっている。「時々の雨」はどうした。こうなればもっと思いきり雨が降って欲しい・・。
8月19日(日) 日曜日の朝早い時間に、自転車で都内を走るのは非常に快適なことを発見した。広い歩道を独占してスイスイ走る感覚は贅沢の極みだ。自動車で空いた高速道路を走るような命をかけた緊迫感はないので、周囲の店を眺めながら街並みウオッチングを楽しみむことも出来る。ところが、同じ道路でも昼頃にはそうはいかない。人が混み合ってくると歩道の自転車は公害となる。歩く人の迷惑にならないように、少しは遠回りでも路地や空いた道路を選んで走らなければならない。けれども、メインの通りでない細道を見つけながら走るのは、また違った格別の面白さがある。そんな街の走りをしていると、ふと、私のかつての企業生活は、渋滞の高速道路かあるいは雑踏の歩道を必死に駆け抜けてきたように思えてきた。今は、路地の走りを楽しんだり、早朝の道路を満喫している。何か申し訳ない気にさえなるが、これからはもっと新しい道を見つけたい・・。
8月20日(月) パスカル(フランス生まれ:1623-1662)といえば物理学者、数学者、哲学者のどの分野を思い起こすだろうか。いまは圧力の単位が「パスカル」を使うので真空などの研究をした科学者のイメージが強いかも知れない。高校生の頃に「人間は考える葦である」にひかれて瞑想録の単行本を読んだことも思い出す。そのパスカルが画家について次のようなことを云ったという(小林秀雄/ボードレールより)。「本物は平凡で誰も褒めやしないが、その本物をいかにも本物らしく描くと褒められる。画家とは何と空しい詰まらぬ職業だろう」・・これは勿論、印象主義もキュビズムも抽象画も知らぬ時代の言葉ではある。いまの時代には本物らしく描いても誰も褒めない。さすがにパスカルの時代から350年も経てば状況は変わっている。けれども現代の絵画とはでは何をしようとしているのか、自分にはどうもよく分からない。「現代絵画」と称するものも旧態依然で新鮮味がなくみえる。現代をもっと勉強したいと思うこの頃だ。
8月21日(火) 大型台風が接近中だ。子供の頃には関西に住んでいたので今の東京よりも台風が身近だった。毎年のように台風が通過し年中行事のようにワクワクしながら台風を待った。正直にいうと台風が通過した後、近所を見回るのが楽しみでさえあった。家は塀(木製だった)が一カ所傾いただけだけれど、お隣のはもっと傾いた、向こうの家の塀は全部倒壊したとかを得意になって話したりしたのを覚えている。塀の傾き加減が台風の強さのバロメータだった。今は同じところの全ての塀はコンクリート製となり、子供の楽しみは無くなったようだ。・・このものすごい量の水をもたらす台風は、一方で貴重な自然の恵みでもあるだろう。万全の対策をしてこの女神さまを迎えることとしよう・・。<息子の受け売りだが気象庁の11号台風進路図はよくできている>
8月22日(水) 日本列島を縦断した台風11号は、今22日夜8時の時点でまだ東北地方を北上中という。東京では今回の台風情報で奇妙な体験をした。ただ今台風は横浜付近と報道されている時に、東京は雨風もほとんどなく台風が通り過ぎた感じだった。台風の目に入ったような形跡もなく、その後もただ天候は回復の一途をたどった。どう見ても台風の通過時間は3−4時間ずれたように思えたが、気象庁はノーコメント。・・それはともかく、東京は台風一過。夜、犬達を散歩に連れて行くときには、吹き返しどころか全くの無風。空をみると星も出ている。何より三日月(もしかすると、27日の月か)がくっきりといつになく美しく見えた。自然が作る三日月の鋭い切っ先にしばし見とれていると、気象庁の予報など、どうでもよくなってしまう・・。
8月23日(木) 先のイタリア旅行で土産に買った絵筆を使ってみて感激した。絵の具の感触がこれ程までにスムースに気持ちの良いということを恥ずかしながら初体験したという次第。最近の油絵は筆にかぎらず、ナイフや棒、手など何でも使って描くことにより筆にはない味を出すやり方も一般的である。そのため基本的な筆塗りを軽く見過ぎたかも知れない。いい筆で描くことは筆を動かすこと自体が快感となる。「弘法筆を選ばず」というのを真に受けてはいけないと改めて思い知った。弘法大師ほどの名人でなければ皆さん筆を選びなさいという逆説に聞かなければならない。実際に”道具”が出来栄えを決定する最重要な要素となることは多い。鉋(かんな)や彫刻刀の切れ味のいいものを使うと自分が巧みの世界の職人になったような気分になる。野球のグローブがよくなければイチローの超ファインプレーは生まれないだろう。一流のピアニストは、いい演奏のためにはピアノを選ぶ。・・ましてや素人はまず「筆を選ぶ」からスタートだ・・。
8月24日(金) このコラムを書くときに、大体の構想が出来た上で書き始める場合と、キーボードに向かうまで全く何を書くかアイデイアゼロの場合がある。今日などは後者。習慣でキーを叩き始めて何が出てくるか分からない。絵を描く人にも丁度同じような二種類のタイプがあるようだ。前もって何も決めずに真っ白なキャンバスに向かう。そこで精神を集中させて一気にその場のイメージのまま描き上げる・・という人の話を聞いたことがある。あれこれ考えずに”気”を凝縮させて勢いで描いくやり方である。反対に、というより、一般的には、画家は綿密な構想と熟慮の末に、絵画を作り上げるようだ。最近読んだ本で、クレー、カンデインスキーなど一見単純極まりなく見える形も色も考えに考えた末に作り上げられたことを知った。さりげなく見える構図や色調が何日も検討を重ねた結果である訳だ。真っ白なキャンバスにいきなり描く人もまた実は長い熟成期間があるのだろう。
8月25日(土) 勝負事をすると人の性質が分かるというが、週末テニスをやっていて、自分はどうも安全策が不向きでないかと感じることが多い。攻めることのできるボールを根気よくつなぐというのが性に合わない。それでも時には「つなぎ」を試みるが、結果は大抵根負けする。相手が根気強くて30球ほどラリーを続けたこともあるが、最後にミスをしてくたびれもうけとなるのは自分だ。ミスをしてもいいから、短期決戦、好球必打と思ってプレーする方が結果もいい。大体、相手のミスで勝負に勝っても後味がよくない。素人テニスの70−80%は相手のミスで決まるというが、自分から仕掛けずにポイントを取りました、あなた方の勝ちですというゲームは面白いものではない。・・これからの人生も、自分から仕掛けてポイントを取るのが目標だが、そのためにはテニスと同じことで、先ず体力が必要だと痛感する・・。
8月26日(日)「右目の見た風景」をご存じだろうか。画用紙の左側には縦方向に必ず山がくる。これは鼻である。自分で左目を見えなくして、右目だけで見てみれば納得できるが、「右目の見た風景」は自分の鼻が近景として左側にそそり立ち、残りのわずかのスペースに他の景色がくる。人間は普通、目は二つある。だから自分の鼻は見なくて済むし、物が立体が見える。逆に、二つの目では片目では見えない物体の裏までを見ている訳なので、これを平面に正確に射影することはできない。遠近入り乱れた立体を平面にどう表すかについては、幾何学や、図学の興味あるテーマであるが、理屈通りの遠近法や透視図法に合致していなくてもすばらしい感動を得られるところが絵画のいいところだろう。
8月27日(月)「女に頭脳は必要ない・・」と現代ならば暴言になる言葉を残しているのはルノアール(フランスの画家、1841-1919)である。嫌みのない美しい人物画や風景画を描いているので女性のファンも多いと思われるが、画家は言葉を詮索されないので得をしている。ルノワール自身は、また「絵は愛すべき、見て楽しい、きれいなものでなければならぬ。だが、きれいな絵で偉大なる作を描くのは難しいことだ」といったという。その言葉通りに愛される絵を描いた幸せな画家だったのだろう。画家の人生というのも千差万別。ゴッホやゴーガンはもとより、ゴヤやセザンヌ・・など今は評価が定まっている大画家達の余りに純粋で、禁欲的、ただ一途な絵画への取り組みを知ると、ルノアールのような例外的な楽天家には何かホッとさせられるものがある。画家の人生は解説がないと分からないが、歴史を経て残っている絵からはそれぞれの人生哲学を感じることができる。絵をみて感動する、その時、画家の人生にも共感を覚えているのかも知れない。
8月28日(火)「晩節を汚す」という言葉がある。功なり名を遂げた人が何でまた国会議員の選挙に立候補するのか。社長まで上り詰めた人が何故いつまでも地位にしがみついているのか。権力という誘惑に負けると”晩節を汚し”、不様な姿をさらす例は多い。けれども、全く別の面ではあるが、自分でも「程々で納める」というのが結構難しいと感じることがある。絵の最終仕上げ時に、描き込み過ぎずにあるところで止めるというのは決断がいるのだ。よりよきものを目指すと終わりが無くなってしまう。後で考えるとベストの状態は前にあったのだが手を入れることにより悪くすることはしばしば経験する。しかし、もしかすると加筆してもっといいものが出来たかもしれない。権力に取りつかれて晩節を汚すのには同情しないが、絵の場合には最後の段階で少々汚してもかまわないと思うようになった。止めたければ止める、更に描きたければ描く。これは誰の迷惑にもならない・・。
8月30日(木)「今日の作品」がなかなか改訂できないので気になっていた。今日は前回の風車に引き続いて、「工作作品」=コーギーのヤジロベー=を入れてみた。このコーギー弥次郎兵衛は夏休みに作り始めたもの。目玉には台所で見つけた胡椒の粒を使用したりしているから、余り長持ちはしないかもしれない。ヤジロベーというのは、重力のバランスを巧みに利用した良くできたおもちゃだと感心する。モビールなどという現代的な言葉が伝わる以前の江戸時代に、こうしたモビール感覚の遊びが普及していたのはすばらしいことだ。風車もわずかな風を受けて廻るが、このヤジロベーもほんのかすかな空気の波でゆらゆらと動く。高級なロボット犬・アイボも良くできているけれど、風の動きに反応するコーギー君もいい。               

8月31日(金) 一昨日、29日には、H2Aロケットの打上げ成功、イチロウ選手の大リーグ200本安打と明るいニュースが続いた。一つは大組織力の成果、一つは個人の活躍という対照的なニュースだった。ロケットの打上げが、もし失敗したときの絶望的な暗さを考えると、もう少しは株価アップに反映されてもいいかと思うが、その後、株価は続落。一方、日本の科学技術の象徴としてのロケット技術を外野からみながら、関連する人たちのモチベーションがどのように維持されるのか少し気になった。膨大な人々の総合力ではじめて達成できるプロジェクトだ。仮に自分が関与した場合を考えてみる。液体水素をエンジンに送り込む燃料ポンプ(前回の問題箇所)のそのまた翼の形状を全精力を注いで開発したとしよう。見事に打上成功。うれしいには違いないが、自分で打ち上げたというより、問題を起こさなかった安堵感で気が抜けるかも知れない。自分がやったという達成感はイチロウの何百分の一か。イチロウほどでなくても、それぞれの組織の中で個人の「やりがい」を向上させること、このあたりがロケット技術のキーポイントに思える。

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