これまでの「今日のコラム」(2003年 6月分)

6月1日(日) 6月、水無月、衣替え。「水無月」の語感では梅雨時の6月とはズレがあるが、これは陰暦6月の雅名であるので、今の暦では7月となると聞けば納得する。語源は、厳しい暑さで「水のない月」、あるいは「水の月=田に水をひく月」とか、「(稲の)実のなる月=みなつき」など諸説あるようだ。6月になったからでもないが、ホームセンターに行ったついでに、ガクアジサイを二鉢買った。去年のクリスマス前に購入したシクラメンの代わりだ。シクラメンは2週間ほど前に花が終わってしまったが葉はまだ元気がいい。半年も楽しませてくれたシクラメンに感謝しつつ脇に置いて、今度は紫陽花の季節となった。紫陽花といえば、以前この時期に庭に咲いたガクアジサイを描いたことを思い出して調べると、丁度10年前、1993年の絵があった。このホームページにもここに掲載している。「紫陽花に雫あつめて朝日かな(千代女)」

6月2日(月) 「今日の作品」に「フロアランプ(陶芸)」を掲載した。100%オリジナルであるが陶芸教室では何を参考にしたかを聞かれるのがさびしい。私は陶芸ではアイデイアが湧くと、ノートにデザインを描き試作品を作ってみる。このフロアランプもはじめにボール紙で三角形を作り、これを巻いて試作品を制作した。三角形の高さと底辺の比を黄金分割にしたところがミソ。黄金分割(参考サイト例ここ)は絵画の構図研究の中で美的な構成の基礎的な比率を見いだしたものといえようか。古代ギリシャ時代以降多くの名画、名建築がその比率を隠し持っているとされる。日本の黄金分割研究でも、法隆寺、桂離宮、浮世絵など何でも黄金比を当てはめてしまう。ここまでくると食傷気味になって黄金分割と関連しない美を求めたくなるほどだ。とにかくも、高さ1に対して、底辺を黄金比の1.618とした三角形の板材を作りこれを丸めてフロアランプを制作した。高さと底辺の比を黄金比にしたが、出来上がった立体の形状は黄金分割とは全く関係がない。けれども、尖った先端から下がるカーブは美的には適度な傾斜となったような気もする。これが黄金比の不思議なところかも知れない。
6月3日(火) 1971年にローマクラブが「成長の限界」で警鐘を鳴らしてから30年以上経過している。マルサスという英国の経済学者が18世紀に、人口はねずみ算式に(1,2,4,8・・)増加するが、食糧は直線的に(1,2,3,4・・)しか増産できないので食糧危機がくると問題提起していた。ローマクラブはこれを更に分かり易く、地球という有限の「池」に蓮が覆われる例で説明していた。毎日、倍に増える蓮は一ヶ月でまだ池の半分にしかないと思っていると翌日には池全面を覆い尽くす。地球環境と人口問題は全人類的な課題としてその後も続いている。人口統計は簡単に見ることができるので、人口の推移を見るだけでも考えてさせられる:1900年(明治33)日本=4380万人、世界=17億人、1960年(昭和33)日本=9430万人、世界=30億人、2000年(平成12)日本=1.27億人、世界=61億人。ただし、日本では2004-2009年頃に人口はピークとなりその後減少し、2050年には1億人前後となると予想されている。一方、世界人口は、途上国の人口増加で、2050年には100億人に達すると見られる。これに南北問題、貧富の問題が絡む。地球規模の問題を個々人が心配しすぎてもしようがないが、これからの時代は地球や人類のためにする仕事は限りなくありそうだ。
6月4日(水) ニュースで「三位一体の改革」という文字がみえた。内容は地方財政の改革を@国から地方への税源移譲A地方交付税制度の見直しB国庫補助負担金の削減の三つを一体的に行うというものだった。三位一体は、キリスト教で神には父と子と聖霊を三つの位格(ペルソナ)があるが、この三つは神としては一体であるという考えからきていることは知られている。イエス・キリストは父なる神がマリアに孕ませた神の子であり、イエスが十字架に磔処刑された後、復活して弟子達に奇跡を示しまた救いを与えたとされるのが聖霊と解釈しているが、私などは深く考察できるものではない。三位一体の教義についてキリスト教団では歴史上の大論争もあったときく。イエスが神か人間かというような議論はさておき、三位一体は「三つのものが一つになる(心を合わせる)こと」(新明解)と辞書に書いてあるほど広く使われるようになった。それにしても、「地方財政改革」の方は三つともその「程度」が決まっていない。こちらの三位一体は難しい教義なしに中味を明解かつ理論的に説明してもらいたい。
6月5日(木) ものを創り出す現場に携わると人は謙虚になる。私の場合ほんの些細であるが油絵を描いたとすると、描いた後しばらくしてから改めて絵を少し離れたところに置き、見直してみる。そうすると自分で描いたという意識が抜けて第三者として見るので、色々と不満が浮き上がる。ゴッホでもクレーでもフェルメールでもいい、世界の大家の作品を思い起こすと余計に力不足が際だつ。この際、現場で描いた人は自分の一存で如何様にも加筆、変更ができるし、一方どこかで「完成」を宣言しなければならない。評論家はあれこれ他人を論評すれば済むが、現場の実行者は論評するくらいなら修正すればよい。自分の力が明瞭に見えるので、他人のことをあれこれ批評はしたくなくなる。・・絵画に限らず、彫刻や音楽でもまたプログラムソフトやシステムさらに新製品開発や発明など、創造の場では同じ事が云えるだろう。「もの(ソフトも含む)創り」は、だから面白いということもできる。謙虚にそして秘やかに研鑽を積み、まれには暖かい評論家に励まされる現場人でありたい。
6月6日(金) 毎日、アール(コーギー犬)の散歩の時(早朝か、夜のどちらか)に「猿楽神社」にお参りする。年に340日は通っているかも知れない。というと、いかにも信心深く聞こえるが、コンクリートの道路でなく土の匂いのする神社が格好の気分転換になるので「お参り」を口実として立ち寄るだけだ。その後、猿楽町の方面にいくか、西郷山公園の方に行くかはその日次第。猿楽神社(このHPではここ)は2年ほど前までは「猿楽塚」であったのが、神社に昇格した。塚は、6-7世紀の古墳時代の円墳(墳墓)で、源頼朝がここで猿楽を催したので猿楽塚と呼ばれるようになったと云われる。猿楽(申楽=散楽からの転訛とされる)は鎌倉時代に演劇化して能・狂言を産んだ。文化遺産となり現代も輝ける能(あるいは狂言)に少しでも関係ある神社に毎日お参りのできることを幸いと思う。
「散る故によりて、咲く頃あれば珍しきなり。能も住する所無きを、先ず花と知るべし」(変化し続けるものこそ、花だ!)「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」(各、風姿花伝/世阿弥より)

6月7日(土) 先の日韓親善サッカーで決勝ゴールを決めた韓国の安貞桓選手(元清水エスパルスに在籍)が韓国で兵役についたことが話題になっている。外国人と付き合っていると若者の「兵役」の話になって日本の特殊性を思い知らされることがある。以前、ハワイの親戚の若者は軍服を着て日本を訪れたことがあった。日本に住むドイツ人の知り合いの子供は本国に帰ったとたんに兵役についた。スエーデンの知人の子供も兵役が当たり前であった。よく知られているように、永世中立国であるスイスは兵役制度は徹底している。イスラエルでは女性も兵役につく。徴兵制度が適応されるといっても西欧諸国では一部の「兵役拒否」を認めて兵役期間に代わりに奉仕活動をさせる国もあるようだが、原則として、18歳とか20歳になると国の義務として兵役につく。日本の同世代の若者は他国のこのような事情を知らないことさえあるようだ。若者が外国にいくと改めて日本を見直すという。相手を知ることは自分を知ることになる。サミット(首脳会談)もいいが、多くの若者が他国の若者と話し合いをする場をもっと持って欲しい。
6月8日(日) 「今日の作品」に「ベニスの思い出」を掲載した。ベニスもいまや懐かしい思い出になってしまった。退職の記念にいった妻とのイタリア旅行であったが、何もかもこれほど楽しい思い出として残った旅行もめずらしい(この旅行については2001-5月のコラム)。スケッチ画(ここ)も沢山描いた。掲載した油絵は直後に描き始めたが、中途半端のままであったのを今回仕上げたものだ。手前のゴンドラの形状、空の色などは仕上げの時点で変更した。旅行直後は、なぜか見たそのままの具象的な風景画を描きたかった。あるところまで描くと今度はありきたりの観光案内のような構図がつまらなく思えてきた。三岸節子が描くイタリアシリーズのインパクトのかけらもないと思うと先が描けなくなった。またその後時間が経過すると、具象だとか陳腐だとかにこだわりなく自分なりに仕上げればいいと思い直して完成させた。この絵にはこうした経緯が絵の中に込められていて、完成させたばかりの絵だけれども長い自分の歴史があるようで感慨深い。
6月9日(月) 所用で新宿駅前にある高層ビルの28階にいった。どんよりした梅雨空を背景として眼下に東京の地平線が広がっていた。方向によっては28階から見上げるもっと高いビルも並んでいる。高性能の望遠鏡が備え付けてあったので覗くと、駅前を往き来する人が顔を識別できるほどに見える。都会ではどこから他人に見られているか分からない。少し離れたビルの屋上には紫陽花が咲いていた。帰路、ビルの23階ではエレベータを乗り降りする人が多いと思ったら、この階には新宿区の職業安定所があると知って納得した。自分が渋谷の職安にいっているときもそうだったが、23階の職安に出入りする人々は一旦街を歩けば仕事に忙しい人と誰も区別はできない。それぞれの思いを計ることはできないが、雑踏のエネルギーが溢れる。東京のこういう自由さとバイタリテイが好きだ。「紫陽花が オアシスとなる ビルの上(hi)」
6月10日(火) デジカメの動作が不安定で撮影途中に突如スイッチが切れたりするのを、何度もon-offを繰り返して起動したり、なだめすかして使っていた。我慢しきれずに自分で原因を調べたら電池を抑える蓋のストッパーが欠けたために電池が接触不良を起こしやすいだけであった。それにしても自分では修理できないのでメーカーのサービスステーションに持っていくと、プラスチックの蓋をその場で交換して問題なくなった。いくら保証期間が過ぎているといっても2−3年で頻繁に開け閉めをする蓋が壊れるとはお粗末だ。電池の蓋の隣にはメモリーカードを挿入する蓋があるがこれも壊れていた。カメラのデザインをする場合、心臓部に当たるメカニズムやレンズには細心の注意を払い耐久テストもやるだろうに、一見技術程度が低く見える「プラスチック蓋」に欠陥がでるのは、カメラの老舗メーカーの姿勢が問われるが、ありがちな話だ。人工衛星やロケットなど先端技術も技術的に難しい課題は大抵クリアできるが、システム全体では従来の延長技術と甘く見ているところに問題が発生するケースが多い。極めて精巧にできている人体システムでも心臓が寿命で止まることは希だ。ただし神様に設計ミスはないはずだから、人体の部品不良は「使用者側のミス」なのだろうか・・・?
6月11日(水) ソニーが新ブランド「QUALIA(クオリア)」を発表したとニュースで報じられている(ここ)。この新ブランドでは、機能やスペックを追い求めるだけではなく「感動価値」を有した製品を目指し、「感動価値の創造」をキーワードとするという。価格競争に終始する従来のやり方に疑問を呈し、価格は高くても「人を感動させる製品」をだすとして、プロジェクタ(240万円)、オーデイオシステム(80万円)、デジタルカメラ(38万円)などが紹介されている。高級品指向で当然商売としての戦略がきっちりできているのだろうが、さすがにソニーは時代をみる目がするどくネーミングがうまいと感心する。自分も生活用品など中国製に代表される安いものは大歓迎だが、それは消耗品であろう。嗜好品は本当に欲しいものが見当たらないこともある。何より安く作ることだけに腐心する技術者なんて面白くもないし魅力もない。「ものつくり」名人の日本人は実はやることがなくなっているのかも知れない。私が日頃商売と関係なく時間を費やす絵画や陶芸も自己表現といいながら、なんらかの感動を伝えようとしている。自分が感動しなければ人を感動させることなどできない。ソニーの「感動価値の創造」をみたときに、これに携われるエンジニアは幸せであろうと思った。
6月12日(木) 花菖蒲を見に行こうといいながらまだいけない。このシーズンにはいつも何があやめで花菖蒲だか混乱してしまうので資料を整理してみた。まず、あやめ(文目)は乾いた土地に生え、葉の表面に筋がない(「あやめ」の語源は花弁のもとの縞模様が文目=綾目のように入っているからとか、「あざやかにみゆる」からとかいわれる)。花菖蒲は湿地に生え、葉の表面に一本の筋がある。カキツバタ(杜若)は水中に生え、葉の表面には多くの筋がある。ちなみに菖蒲は風呂に入れて菖蒲湯とするように、剣先のように尖った葉が芳香を放つ里芋科の多年草(下部に地味に花穂をつける)。花菖蒲は葉が菖蒲に似ているのでのその名がついた。花菖蒲の花言葉は「心意気、うれしい知らせ」。・・予習はこの辺りにして数日中に明治神宮の花菖蒲園にいって実物を観察することにしよう。
「今日の作品」に「鉢A(陶芸)」を掲載した。手びねりの変哲のない鉢だが高台を作らずに単純な形にこだわった新作。今朝から我が家の食卓にお目見えしている。

6月13日(金) 自分では子育てに関与したという実感がほとんどない。せいぜい背中を見られた程度だろう。今になって、娘の子育てをみていると「母は偉大」という言葉を思い出す。孫(2歳半)はものわかりがよくこれ程扱いやすい子供がいるのだろうかと思うほどいい子だった。少し前までは・・。それがぜんそく気味に体調を崩したのと反抗期が重なったせいかもしれないが、突如いうことをきかなくなった。自分の思い通りにならないと泣きわめいて止まらなくなる、夜も昼もほとんど眠らない、母親とべったりくっついて離れないなど・・。「教育は自己抑制」という。この子はそんな言葉と無縁と思っていたら大間違いだった。「自己抑制」できないままで甘やかせていると際限なくエスカレートする。相手の良心を信じていたら「つけあがる」のは大人社会のでもよくあることだが、抑制のきかないこどもをみると、これが人間の本性だろうか。思わず、つけあがる相手を力ずくで抑えるのか、あくまで甘やかせて時を待つのか、教育をして変えるのか、体力をつけさせ自制心を求めるのか、何がベストかなど大人の社会のことを考える。子育ても相手との知恵比べだという。母親は(勿論、父親も)子供を通して更に成長しまた人間の原形を知るだろう。
6月14日(土) 今日、東京は今年最高(真夏日)の気温になったという。猛烈に蒸し暑い日中にはテニスで汗を流した。いまパソコンのキーを叩いている部屋で気温29度、湿度70%だ。頭をクリアにするために中学の理科の復習をしよう。気温が29度であると飽和水蒸気量は28.8グラム(空気1立方メートル当たり)。これは大気圧下で物理的に決まる数値、28.8が水蒸気(水分が気化したものですね)の最大量でそれ以上大気は水分を含むことはできない。湿度が70%というのは、28.8*0.7=20.16グラムの水蒸気が空気1立方メートルに含まれていることになる。これは気温が約23度の時の飽和水蒸気量に相当する。つまり、コップの水を氷で23度まで冷やしていくとコップの外側に結露する(空気に含むことのできない余分な水分がコップに付着する)。私の部屋の空気容積は約18立方メートルであるので、部屋には20.16*18=363グラムの水分があることになる。部屋が狭いためか思ったより少ない数値だ。窓を開けないようにすれば除湿は比較的簡単かも知れない。・・私は昔、冷暖房機器の設計にも若干かかわったので理屈は分かるが、こういう数値は全て中学校の教科書にでてくる。中学のレベルもあなどれない・・。
6月15日(日) 「継続」と「惰性の排除」には何かにつけ表裏となって悩まされる。継続すること自体に意味あることは多い。細々でも続けていると少なくとも前には進むが、途中で止めると進歩がなくなるだけでなく退歩する。健康の維持向上には、たまに栄養剤を飲むより、毎日のバランスのよい食事とか運動の習慣を続けることが一番だろう。しかし、一方で、くだらないことを(とあえて云う)惰性で続けるな、新たな道を開拓しなければ意味がないと自分で言い聞かせる。いつまでも「過去の思い出に浸る」ことはもっとも遺棄するものだ。このホームページでもとにかくも毎日改訂して、継続していることだけでも認めようと思う反面、惰性で続けるのならば止めた方がいいという裏の声があがる。惰性でなく前向きであれば「継続は力」になるというが、「日々これ新」という言葉が継続を力とする要諦を表しているように思えてきた。「日々これ新」は毎日を前向きにとらえて惰性を排除するチェック機能となりそうだ。それにしても、本当に日々あらたを実行するのは容易なことではない!
「今日の作品」に「手捻り鉢B(陶芸)」を入れた。前回の鉢Aとペアの作品ではあるが、これは単純ながら自分としては実験作。
6月16日(月) デジカメで撮影した画像をphotoshopのソフトを使って自在に切り張りしたり色調を調整したりする。 今では当たり前であるが、ほんの20年前には考えられなかった。こうした作業を個人のパソコンでできるのはうれしい。生活の一部になったインターネットや携帯電話の便利さもまた同じく本当にありがたいことだ。現代技術の恩恵には大いに感謝すべきだが、一方で「陶芸」をやってみるとはるかに昔の人の技術や研究心の旺盛さには感心させられる。例えば瀬戸物の釉薬の変遷をみると、平安時代の灰釉、鎌倉時代の鉄釉、室町時代ー戦国時代には黄瀬戸釉、志野など次々に新しい釉薬が開発され、江戸時代には現代使われる釉薬のほとんどは完成している(中国やエジプトではBC3000-4000年前の施釉された陶片が発見されているという)。化学記号もなく成分分析もできない、また1300度の高温を計測する道具もない時代に、すでに現代に勝るとも劣らない製品ができていた。ただし、陶芸という極めて限られた分野の技術であって一般人には関係ない技術であったのだろう。技術に終着駅はないが、コンピュータなど時代の最先端技術を”個人”が手にすることができること、それがいまの時代の最も恵まれた所かも知れない。
6月17日(火) 明治神宮の花菖蒲園にいった。しとしと降り続く梅雨の中、訪れる人も少ないのでないかと思ったのは大間違いで、雨などものともせずに旗を持ったバスガイドさんに引率される団体様が引きも切らず。それでもいまを盛りと咲き誇るたくさんの花菖蒲をゆっくり楽しんだ(写真でみる例:ここ)。インターネットでの明治神宮・花菖蒲情報によると、一昨日15日の花菖蒲開花数が今年最高で、6861、昨日の開花数は6089と発表されていた。昨年のデータだと開花数がピークの日から10日も経つと千本台まで数が激減するようだ。この明治神宮のHP(ここ)には、この数年間の花菖蒲の開花数が日ごとに記載されている。毎日どうやって正確な開花数を把握するのか知らないが、相当の手間をかけていることは分かるし、やる気は十分に伝わってくる。「うつせみの 代々木の里は 靜かにて みやこのほかの ここちこそすれ(明治天皇)」。確かに、人混みさえなければ都心にいることを忘れさせる花菖蒲園だった。花菖蒲が終わった後にまた行ってみたい。
6月18日(水) 「今日の作品」に「知床五湖」(水彩)を掲載した。先の5月に北海道を旅行した際の風景だ。この旅行は団体のツアーに入ったので、早朝出発、夜の9時過ぎに宿舎着など効率がよく気に入ったけれども、とても現場でスケッチをする余裕などなかった。その代わりに意識して眼に記憶を留めるようにしてデジカメ写真を元にこの絵を描いた。北海道旅行でどこが印象深いかと問われれば知床半島と答える。絵に描いた知床五湖とは湖が五つあるところだがこの時期「ヒグマ出没中」にて3湖・4湖・5湖は立ち入り禁止となっていた。羅臼岳(1661m)から硫黄山(1563m)に至る山並みには残雪、山麓には新緑の緑とともに何故か秋を思わせる茶褐色の色が印象的。夕暮れ時、鏡のような湖面に映る山々は神秘的でさえある。この景色に接しただけで北海道にきた甲斐があったと思った。
6月19日(木) 同窓会で姫路にいくので切符の算段をはじめた。新幹線(ひかり)の指定席でまともに手配すると、往復で¥30420。自由席とか回数券といってもたいして安くはならない。こんなとき、AB-ROAD,7月号が手元にある。この雑誌はご存じ、格安海外旅行の情報誌。早速ページをめくると超格安の数字が目に飛び込んできた。ロスアンゼルス往復航空券1.99万円、ロンドン往復航空券3.98万円、ローマ往復航空券3.98万円・・。勿論、出発日などが制約があるにしても、こんな価格を見ているだけで夢が広がる。姫路にいくことを考えると、チョイとロスにでも行くか、それともローマにするか・・。往復の航空券以外の費用がかかるだろうと心配するには及ばない。ホテル代も大抵日本より安く泊まれる。いや、日本でもJRを使わなければ相応の旅行を楽しめる。先日の北海道3泊4日の大旅行は、往復航空券、宿泊費、移動費、ガイド費など全てを含めて、冒頭の姫路往復より格安であったことを白状しよう。JRはまだまだ殿様商売ができるようだ。
6月20日(金) いま「川崎憲次郎」の名前が注目を集めている。プロ野球中日球団の川崎投手(32歳、1988年ヤクルトに入団、FAにて一昨年中日に移籍)は推定年俸2億円といわれるが、肩の故障のため、昨年、それから今年と一度も一軍に登板していない。それが今年のオールスターファン投票で目下セリーグの投手部門一位だ!ファン投票はインターネットを武器とした川崎に投票する「お祭り」で占拠されてしまった。投票経路を調べると一台のパソコンで1000票以上投票されたことも発覚したというが、不当な投票でなくても、お祭りに雷同した数でも当選するだろう。この話題は色々と示唆に富んでいる。多数決はしばしば奇妙な(デタラメな)結論をひきだす。最近の鯨捕獲高についての国際会議も同じだった。鯨など縁のない国々と捕獲量を多数決で計るのはほとんど意味がない。更にインターネットという訳のわからない手段に今後とも「世論」が振り回される可能性もある。自然発生的にみせた世論操作などをどう見破るのか。お祭りでは済まないこともある・・。
 ー明日から関西方面に旅行のため2−3日コラムはお休みしますー

6月23日(月) 小旅行から先ほど帰宅した。同窓会の後には赤穂御崎の高台にある宿(瀬戸内海・家島群島を真正面に見る場所)に泊まり、もう一泊は岡山の宿。その間、播州姫路、備前、倉敷などを周り、今日は京都に寄る。同窓会は一人旅の絶好の口実となる。気ままに好き勝手なところを見て歩いたが、京都では真っ先に建仁寺にいった。このお寺の大天井に昨年、小泉淳作が完成させた「双龍図」をだだの一人でいつまでも眺めるという贅沢も堪能した。建仁寺から祇園ー八坂神社ー四条ー三条と歩いたら(三条通りの安藤忠雄設計のTime'sという建築をみる)いささかくたびれた。それでも京都駅に戻りモダンな京都駅ビルを見たとたんに元気がよみがえる。昨年もこの原広志さん設計の京都駅ビルには一時間以上時間をかけて丹念にみたけれど、今度もまた空中通路だとか大階段を上り下りして飽きることがなかった。二度三度繰り返してみても新しい発見がありエネルギーがもらえる対象物に出会えるのは幸運だが、原さんの傑作、京都駅ビルはそんな中の一つだ。一人旅は自分の本性を気づかせてくれる。古都京都で、私はお寺も好きだが、現代モノがやはり好きなのだと思った。
6月24日(火) 旅行の前にインターネットでホテルの予約をした。はじめ指示通りにしてもどうしても予約確認ができない。結局、メールで問い合わせした結果、explorerのセキュリテイセットなどを変更して解決した。もう一つ:最近HPを見ていただいているYさんから相互リンクの申し出のメールをいただいた。翌日「返信」で返事をメールしたら配達不能で戻ってくる。どうも無料のメールサービスか何かの期限切れの感じ。こちらはメールで問い合わせることも何もできない。インターネットやメール、ホームページなどは周囲によきアドバイサーが必須のようだ。私のHPなども自分で気がつかずに他人や親戚からミスや改良すべき項目を教えられたことは多い。コンピューターも最後のチェックは人間関係か・・。
「今日の作品」に「曲芸コーギー(陶芸)」を掲載した。キツネが同じ格好でぶら下がったり、ひっくり返ったり、座ったりする置物があるが、コーギーちゃんは尻尾がないのでキツネのように大きな尻尾でバランスをとることはできない。とにかくもご覧のような姿が出来上がった。釉薬を筆で軽く塗ったところムラが目立ったので色はアクリル絵の具とカシュー塗料で一部加筆した。釉薬で思い通りの色を出すにはまだまだ先が長い。

6月25日(水) 新幹線はアイデイアを練る絶好の仕事場となる。昨年の4月に新幹線で姫路に行ったとき「自在一輪挿し」(陶芸・ここ)の創作アイデイアが湧いた。ノートには列車の中で描いたメモが何ページもある。自分でいうのもおかしいが、この角形リングが絡み合った一輪挿しは私の陶芸作品の中でも他では見られないユニークなものとなった。先週の旅行でも新幹線で「新作」のアイデイアメモがノートに溜まった。新幹線の中での数時間は自分にとって全くの自由時間だ。しかしながら身体を動かすことはできない。一方で肉体は猛烈なスピードで位置を移動しながら私が降りる目的地に向かう。この自由の裏にある緊迫感が新しい考えを産むのに適しているように思える。車窓にみる非日常の景色も適度の刺激を与えてくれる。到着駅がこの世の終わりとすると、到着するまでの限られた時間に出来る限りのアイデイアをださなければならない・・こんな心理状態かもしれない。しかも到着した後は新世界で極楽三昧ときて、また頭は活性化する。アイデイアがどんな姿で現物となるか、それが楽しみだ。
6月26日(木) 建築を見るのが好きである。先週、関西・中国へ旅行した際も、安藤忠雄設計の建築がどこにあるか事前に調べて見て歩いたり、原広司さん設計の京都駅ビルを楽しんだ。私は建築には全くの門外漢なので好き勝手な見方をする。建物が住みやすいか、使いやすいかなどは問わない。大きな彫刻をみるような感じで、ただ外観だけを観賞する(外観といっても勿論内部のインテリアにもこだわる)。今日、思うところがあって、フランスの建築家、ル・コルビジェ(Le Corbusier=20世紀を代表する建築家、1887-1965)の「ロンシャンの礼拝堂」をインターネットでみた(例@、全体像ここ!)。この教会については私にも何となくコルビジェの名作という話が伝わり名前は承知していたが、改めてこの建築をみて少なからずショックを受けた。私が秘やかに陶芸でやろうと思っていた造形がこの教会建築の至るところで使われている。この美しく巨大な建物の造形と比べると陶芸の何と小さく見えることか。コルビジェは建築以外に絵画も多く描いているし、家具のデザインもしている。それぞれに現代でも全く古さを感じさせないところがすばらしい。今日は半世紀前のコルビジェから心地よい刺激を受けた。
6月27日(金) 仏教の本を読んでいて突如ブッダ生誕何年かなと考えた。キリストならば西暦そのままに生誕2003年といえばよい。もっとも西暦の暦も6世紀頃に定められたのであって、キリスト生誕とされた西暦元年の7-8年前にキリストは生まれていたというのが現在の定説であるようだ(ちなみに、西暦元年の前の零年は存在しない、B.C.=Before Christの1年となる)。ブッダの生涯も諸説あるようであるが、紀元前500年前後に活動されたとされるので、概略は生誕2500年というところだろう。こうしてみると2003年もいわば便宜的な暦ではある。ブッダにも敬意を表して言葉を一つ引用しよう:「富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自我に執着する。この執着から苦しみ悩みが生まれる。・・この執着を押しつめてみると、人びとの心のうちに無明と貪愛とが見いだされる(無明=移り変わるものの姿に眼が開けぬこと、貪愛=得ることのできないものを貪り愛着すること)。ものに差別はないのに差別を認めるのは、この無明と貪愛との働きである。ものに善悪はないのに善悪をみるのは、この無明と貪愛の働きである。<仏教聖典より>」
6月28日(土) 白熱電灯の下で描いた絵の色は太陽光のもとでみると随分違って見える。暗い部屋に電灯をつけて絵画を描いても、屋外にだしてみると白色の輝きや全体の色調がこんなはずではなかったということになる。店先の真っ赤なリンゴやサクランボが蛍光灯の下では美味しそうでなく見えるし、赤ワインをグラスに注いでも蛍光灯の光を受けると興ざめになることも経験する。色は光源の種類によって微妙に変化する。太陽光は白色光で、光の特性を決めるスペクトルは幅広い連続スペクトルに一部吸収線(フラウンホファー線)があるとされる(虹の七色/赤・橙・黄・緑・青・藍・紫は波長の長い順に観察されるがこれら七色を混合すると白い光になる)。白熱電灯も連続スペクトルをもつがやや赤みを帯びる。蛍光灯はとびとびの周波数の光の混合だが蛍光物質が太陽に近い白色光をだす。・・こうして色と光のことを考えると我々が目で見て感じているものは一体何ものだろうかとさえ思うことがある。パソコンの中では1600万色がわずか三つの色で合成される。この色を見分ける人間の眼もまた不思議なものだ。
6月29日(日) 「ハリーポッター」の第5巻が英米ほかで一週間ほど前に発売され、相変わらず大ヒットしているという(日本語版は来年の6月発売とか)。ハリーポッターの本は1巻から4巻まで全世界、数十?の言語に翻訳され2億冊が売れた。作者のJK.ローリングさん(1965年生まれ)は、シングルマザーで生活保護を受けながら第一巻の「ハリーポッターと賢者の石」を書いたという伝説があるが、いまやイギリスではエリザベス女王と同等の財産持ちとか(ビートルズと同じく英国の貿易収支改善にも貢献しただろう)。私は第一巻の日本語版を発売された当初に読んだのと映画を見ただけで、2-4巻を読んでいないので本の内容について詳しく論評できるものではない。けれども日本でも1000万部が売れたというハリーポッターが日本のこども達にどのように読まれているのか興味がある。いまのこどもや青年は”しらけている”と云われるが、ハリーポッターはシラケとは対極にある。悩んで閉じこもることもなく、常に前向きに問題解決に行動する。更に、先生が推奨しそうな「みんな仲良く」とか「相手も同じ人間(でなく魔法使い)なのよ」というベースはない。悪はあくまでも悪だ。相手をやっつけなければ自分が殺される。昔のグリム童話のように、物語の世界でこどもは現実の厳しさを感知しているのかも知れない。
6月30日(月) 銭湯ではなく自宅の風呂に入って「浮世風呂」を読んだ(もちろん現代本で)。「浮世風呂」は江戸時代後期の戯作者、式亭三馬(1776-1822)の滑稽本だが、いま読んでもその名調子に酔うことができる。文字は原作と違うが、一部を紹介しよう:「つらつら鑑みるに、銭湯ほどちかみちの教えなるはなし。そのゆえ如何となれば、賢愚邪正貧福貴賤、湯を浴びんとて裸になるは、天地自然の道理、釈迦も孔子も於三も権助も、産まれたままの姿にて、惜しい欲しいも西の海、さらりと無欲の形なり。欲垢と煩悩と洗い清めて浮湯を浴びれば、旦那さまも折り助も、どれがどれやらおなじ裸体。・・・」 近頃はほとんど銭湯に行かなくなった。我が家からも余裕があれば歩いて銭湯にいけないことはないが、ごく希に行くときは健康ランドにでもいくような少し贅沢をする気分となる。旅行先で温泉にいく機会の方がまだ多くなったが、温泉では賢愚・邪正・貧福・貴賤が同じとの感慨がそれほどは湧かない。それでも一切の虚飾を取り外した「裸」の姿は、たしかに人間を原点に回帰させる何かがある。丸裸で自分はなにものと見直すのも面白い。

これまでの「今日のコラム」(最新版)に戻る

 Menu + Picture + Ceramics+ Gallery + Corgi + Special + Links