これまでの「今日のコラム」(2003年 7月分)

7月1日(火) 昨日のコラムでは「裸」になることを書いたが、今日は反対に化粧とか衣装に触れたい。人間、中味が大切だといってみても、実は人の内面などそう簡単に分かるはずはない。外観や身につけているものである程度人が判断されても止むを得ない。「馬子にも衣装」には同感する。私はすぐに絵と連想してみるが、同じ絵でも額(フレーム)の選び方で随分と印象が変わる。額によって絵が見違えるように引き立つことも多いので額選びは重要だ。それにしても、人の外観を装う職業のなんと多いことか。美容、ファッション、服飾、宣伝広告(PR)、コマーシャルなどなど。ここまでくると、外観や宣伝されたものだけでなく別の本物を見る眼も欲しくなる。フレームの豪華さや知名度とは関係なく宝石のような絵画が存在するように、気がつかないところに寒山拾得が潜んでいることも確かであろう(寒山も拾得も高僧でありながら普段はみすぼらい風采をしていた)。
「今日の作品」に「ベニスの思い出B」(油絵)を掲載した。この絵は水平線の景色を描き始めたが途中で面白くなくなり放置していた絵だが、最近思い直して右側の黒い部分を加えて完成させたもの。これで少し自分らしさがでたか。この絵のためにはシンプルな木製フレームを自分で製作するか・・などと、今度は絵の化粧をする美容師役に考えを巡らしている。

7月2日(水) 実力を競うスポーツで「日本一」というと相当の栄誉と見返りがあって当然と思われる。何百人ものエリートではない、ただの一人になるには本人の努力、精進も並大抵ではないだろう。ウィンブルトンテニスが放映されているが、ところで、今のテニスの全日本チャンピオンは誰?・・といっても答えられる人は少ないだろう。テニスの日本チャンピオンに対するマスコミの関心が余りに少ないのには同情さえ覚える。マスコミが冷淡であるということは、スポンサーもつかず、従って賞金も日本一にしてはかわいそうだ。いや、個人スポーツではゴルフが例外的に恵まれている方で、卓球でも水泳でもどれもテニスと変わらないのかも知れない。・・こんな話を妻にすると、「音楽の日本一の方がもっとかわいそうよ・・」と云う。実力主義の世界も金銭での報われ方は相応ともみえない。フェアプレーで日本一を獲得したチャンピオンの賞金を、一桁アップする知恵はないものだろうか。
7月3日(木) 「今日の作品」に「塔型花瓶(陶芸)」を掲載した。まず、掲載した写真はフラッシュで撮影したもので、実際にみるよりも極端に色が強調されてしまった。実際の感じは「陶芸コーナー」に掲載したフラッシュなしの写真に近い。この花瓶は前に作成した塔型のフロアランプ(陶芸コーナー)のペアとして制作したもの。ランプ作成時と同じように縦横は黄金比(2003-6月2日コラム参照)にとった板を巻く形だが、今回は途中から黄金比よりも傾斜を緩やかに設定した。水を溜める部分をもう一枚の板で形成して、最終的に前部の二重巻き部も水を溜められるようにしたので、前の部分にもお花を生けることができる。このような全くのオリジナル形状を工夫して創り上げるときが自分にとっては一番充実感があり幸せなときだ。更にこの花瓶の嫁入り先は決まっているが、そこでいつも美しい花で飾られているなんて考えるだけでもうれしい。
7月4日(金) 123×642=246×321・・が回文(はじめから読んでも終わりから読んでも同じ綴り)の一つと知ったが、どうしてこういうものを作り出すことができるのか不思議でしようがない。言葉遊びの中にはある種の天才の所業と思われるものも多い。誰が作ったのか分からないが古典的なものはリズムがよい。おはじきの唄など思い出すだけでのどかになる:「いちじく、にんじん、さんしょに、しいたけ、ごぼうに、むかご、なぐさ、はじかみ(=ショウガ)、くねんぼ(=ミカンの一種)、とんがらし」(一から十までの数え歌)。「世の中は、すむとにごるで大違い」というのも好きだ。「すむ=澄む」は濁音なし、「にごる=濁る」は 濁音を表しその下の句を続ける。下の句の例:「福(ふく)に徳(とく)あり、ふぐに毒(どく)あり」、「人は茶(ちゃ)を飲み、蛇(じゃ)は人を呑む」。中でも一番のお気に入り:「刷毛(はけ)に毛があり、禿(はげ)に毛がなし」。現代でもたまにはコンピュータから離れて言葉で遊ぶ余裕を持ちたい・・。
7月5日(土) 土曜日はいまでも言い知れぬ開放感がある。久しぶりに筑紫楼という中華料理店にフカヒレラーメンを食べに行った。ここは我が家からは数分で行くことができるが、フカヒレ料理が有名で遠方から足を運ぶ人も多いという。私たちは大層な料理をとることはなく、大抵はフカヒレラーメンを注文する。今日は、最後にアンニン豆腐をとった。味の表現には「舌がとろけるような」とか決まり文句もあるが美味しい味を言葉で表すのは難しい。フカヒレラーメンはそんな風な絶妙の美味しさである。アンニン豆腐はフカヒレの味を忘れさせない程度に、十分に冷えた爽やかな風味で口の中をリフレッシュさせてくれる。気分良くなったので今日のワンポイント、アンニン豆腐を調べた。アンニン(杏仁)のアンは唐音で「キョウニン」と同じ。杏仁(キョウニン)は杏子(あんず)の実の内果皮の中にある種子を干したもの(広辞苑)とある。「杏仁豆腐」はアンズの仁(=種子から種皮を取り去った中味、即ち、胚および胚乳の総称)を主材料にして作った中国の天心料理(同、広辞苑)。理屈はともかく、アンニン豆腐もまた食後一時間経った今もなお、その味を忘れさせない。
7月6日(日) "This tastes great" you said and so the sixth of July-our salad anniversary /「”この味がいいね”と君が言ったから七月六日はサラダ記念」。今日、7月6日は俵万智さんの「サラダ記念日」。この歌集が発行されたのは1987年、万智さん25歳の時と云うが今あらためて接してみてもみずみずしい感性だ。7月6日というのも7月7日の七夕とか特別の日でないのがまたいい。当時、流行につられて私も「サラダ記念日」を購入して読んだ。忙しい最中であったが、何か別世界を覗いたような気持ちになり自分でも短歌が出来そうに思えたことを思い出す。久しぶりにこの「サラダ記念日」の本を読みたいと本棚を探したが見当たらなかった。その代わりに、ジュリエット・カーペンター英訳の"Salad Anniversary"を見つけだしたのが、冒頭の英語版だ。英語版も楽しいのでもう一つ(野球もの):Two outs, bases loaded-you crouch, tense, as if it were a major life crisis.
7月7日(月) 旅行の途中で美術館巡りをしようと思って、遠路はるばるいくつかの美術館を訪れたところ、みんな休館・・、その日は月曜日だったという体験がある。月曜日は美術館や博物館はほとんど休館日に決まっている。東京でも、今日、月曜日にオープンしている美術館はないか調べてみると、国立、都立、区立の施設は休みだし、民間の美術館もそろって休館。土曜、日曜は開館するので月曜を休みにするのは、分からないではないが、全てそろって休館にするのは余りに能がないように思える。どこの美術館も同じ曜日に休日をとる必然性が理解できない。むしろ、別々の曜日に休館日を設定すれば、美術館のキューレーター(学芸員)は自分の休みのときに他の美術館をまわって勉強もできる・・(実際には、そういうことは勤務時間中に”出張仕事”としてやるのだろうが)。美術館側の都合でなく、利用者のことを考えるとどこか月曜日に開館する美術館があっても良いはずだ。いまはデパートの定休日(毎週ではなく月に1−2回の基本休日) は、月曜(三越)、火曜(西武、小田急、東急、そごう)、水曜(伊勢丹、東武、高島屋、プランタン、丸井)、木曜日(京王)とそれぞれに異なっている。昔はデパートもそろって月曜定休であったような気がする。要は利用者に「来ていただく」立場をとるか、「見せてやる」なのかの違いなのだろうか。
7月8日(火) 「今日の作品」に「サフィニア(水彩画)」を掲載した。この絵は、今朝、目の前にあったサフィニアの鉢を全く下書きなしにサインペンで写生し水彩で色を付けた「今日のスケッチ」。絵そのものは短時間で描き上がったが、「サフィニア」誕生までの長い物語が興味深い。まず、「サフィニア」という名前はサントリーの商品登録されたもので、垂れ下がった枝に花が波打つように咲く姿から、サーフィンの「サーフィ」、それにペチュニアの「ニア」をくっつけて命名された。この花はサントリーと京成バラ園との共同開発による新種なのだ。園芸用のペチュニアは歴史は長いが今ひとつ多湿な日本に馴染まないところがあったが、サントリーは南米でペチュニアの新原種を見つけだして、日本の風土に適した新品種の開発に成功した。1989年のサフィニア発売以来、園芸の需要にマッチして売れ行き好調で、今や2000万ポットも出荷する大ヒット商品という(サントリーの園芸用HPがとても親切=ここ)。ところで、我が家の鉢はこんなにだらだら伸ばして”サーフィン”をさせる前に枝先摘みをすると、まだまだ沢山の花を咲かせることができることも分かった。お絵かきは園芸知識も増やしてくれる。
7月9日(水) 先日、偶然に「マトリックス・リローデッド」(ここまたはここ)という映画を見た。見終わった後、これは息子など若者にオススメ映画だと思っていたら、6月初旬の時点で、日本での興行収入が、22億円余、観客150万人を動員した大ヒット(ハリーポッターを上回る観客動員数で日本新という宣伝もある)映画であると知った。息子に薦めたりすると笑われるところだった。冒頭の「偶然に」映画を見るというのは妙な表現であったが、「マトリックス」は私にとって非常に近しく懐かしい言葉で、”題名につられて”この名映画をみたという意味だ。私の卒論(&修論)はマトリックス法で振動解析を行うというもので、当時、初めて導入された”電子計算機”(コンピュータとは云わなかった!)を駆使してマトリックス計算をした。この場合のマトリックスは数学での行列の意だが、映画でのマトリックスは「中でものが形成される母体とか基盤」の意であるようだ。映画を見た後に分かったのであるが、4年前に「マトリックス」という映画が大ヒットし、それに続く第2弾が「リローデッド」。この映画、スターウオーズの未来モノ、カンフーのアクション、カーチェースのドタバタなど全てを取り混ぜてCGで作り上げているのだが、手抜きがなく見ていて気持ちがいい。CGを多用した映画は好きではないと決めつけていたが、MATRIX RELOADEDは映画も進歩していることを教えてくれた。
7月10日(木) 自然は類い希なるデザイナーに思える。山や川、月や雲、魚や鳥、草花などどれをとっても自然の形態や色彩には人知を越えた美しい創造をみる(それを創造主、神の仕業とすることもある)。それに対して、人工物はともすると醜悪な姿をさらす。せめて真剣にデザイナーを介すれば、創造主には遠く及ばないにしても、もっと気持ちのいい環境ができると思うことが多い。前に旅行で立ち寄った北海道の芝桜の丘などもデザインをもう少し考えれば遙かに見栄えがよくなると思ったし、JRの駅舎は各駅で特徴のあるデザインを加えればもっと楽しくなる。デザインで難しいのは、デザインの質と好みの問題だろう。私は駅の前に彫刻の裸婦像などあるのは好みではない。抽象彫刻などもない方がいいと思うことがある。自然を真似しようとする人工物は模倣の限界を見せるだけにみえるので、人間の創りたいものに徹したデザインの方が私は好きだ。・・人の目に付く公の場には必ず上質のデザイナーが関与する習慣ができないものだろうか。
7月11日(金) このところ土の作業ばかりしている。陶芸の土いじりも、敷石工事の土いじりも、共に体力勝負と同時に綿密な計画と繊細さの勝負でもある。大汗をかきながら作業をしているとこれは正に土方仕事だなと思った。「どかた」というと語感がよくないが、字で「つちかた」と読むとピッタリだ。「どかた」は辞書によると「土木工事に雇われる労働者」とある(新明解)。本来は、水方とか火方、石方(みんなでたらめの造語だが)に対して、土方という神聖なる専門方のはずだが、どうして「どかた」は軽蔑語になってしまったのか不思議だ。名字では土方は「ひじかた」となる。土方歳三(新撰組副長)や土方定一(美術評論家)、土方巽(舞踏家)など有名人も多く、「ひじかた」は元来、源氏系の武士の名前であったという。キーボードを叩いたり、ブルドーザーの運転をするのでなく、自分の手で直接土をいじる土方仕事は、雇われの労働でなければ、いまの時代では贅沢の極みであろう。
7月12日(土) 「今日の作品」に「アルマジロ」を掲載した。バックはパステル、黒の四角(内部赤)はグアッシュなど使用。題名の「アルマジロ」は適当につけた。今になって、形を連想させるタイトルよりも、例えば、「土曜日の朝」とか「ボクの軌跡」とかもっと別の題名の方がよかったかとも思う。こういう題名は自由に考えると面白い。もう少し候補をあげよう。「雨上がり」、「17個の椅子」、「テンプテーション(誘惑物)」、「涅槃へ」・・。つまり、何でもいいわけだが、作者として何を意図して描いたかを問われると困る。時として、形のスケッチでないイメージを描きたくなる。今回は、黒の四角の形状を配置した後に、他に何もない黒系統の静かな闇を意識していた。ところが、いざ具体的に描く段になると、成り行き任せで結局こんなになってしまった。こんな文章を綴っていると、いいことを思いついた。四角の配列はそのままで、背景を変えてあと数枚、同じ絵を描くと面白いかも知れない。これは是非、有言実行でやってみたい。
7月13日(日) スポーツジムで動かない自転車を漕いだり、ウェイトトレーニングに汗を流すのをみると、この僅かではあるが無駄に消費される(正確には本人の筋力を鍛えるだけの)エネルギーを有効に蓄積できないものかと思うことがある。塵も積もれば山になるで、一日、1円のお金を貯めるのと同じように、ほんの少しでもエネルギーを蓄積し続けて、例えば100万人分を集めことができないか。単純に考えれば、運動のエネルギーを蓄電できればいい。ところが電気は貯め込むことができない。夏の電力消費のピーク時に電力危機が叫ばれるのは今の余力のある時に蓄電をすることができないからでもある。ビルの地下に大きな蓄熱層(普通は水)を持ち夜間の電力に余裕がある時に蓄熱し、昼間にその熱エネルギーを使用する程度のことはできる。けれども大電力を蓄電は出来ないし、微々たる筋力を電気で貯めるなど実は現在の技術では全く現実性はない。「高効率小容量エネルギー蓄積装置」ができるまでは、いっそ発想を変えて、スポーツジムで流す汗を、例えばボランテイアで老人の手伝いをするとか、荷物を運ぶとか、他人のために汗を流し筋力を使うことが、エネルギーの有効利用になるかも知れない。
7月14日(月) こどもの事件などがあっても、子育てに関してはうっかりとコメントはできない。立派な教育評論家や先生方もまた自分の子育てには苦労するだろうし、理屈だけではこどもは育たないと思うからだ。それでも、自分自身のことはさておき、今のこどもたちの教育に何を望むかを考えてみた。絞り込むとただ一つ、それは「感動」を教え込むことではないかと思える。ものを知ること(学習)の面白さ、作ることの楽しさ、友達との友情、生きていることの不思議さ、草花の美しさ、生命の尊さ、先人への敬愛・・こうした全てが感動と結びつくであろう。感動とは自分勝手なものではなく、「自己抑制」なしには存在しない。・・こんなことを書き綴ってみると、「感動」を持つべきはこどもに限らず、歳をとってもまた必須でないかとも思えてきた。年寄りは感動が薄れるという。それは、自分で限界を決めてしまって、より高いものに目がいかなくなった状況であろう。いくつになっても、こどもや若者に劣らぬ感動を持ちたいと思う。感動年齢というバロメーターができそうだ。
7月15日(火) 「ミニマル・アート」と呼ばれる分野があった。1965年に雑誌に掲載された論文でミニマル・アートの言葉が使われたのが始まりといわれるが、抽象芸術の中でも超簡素化アートとも云うべきものだろう。何がMINIMAL(=最小限)かというと、作者が手を加える内容が最小限にみえることから、そう呼ばれたようだが、彫刻ならガラス板、金属板、蛍光灯などを工業材料をそのまま使う、絵画なら色彩は極力少なく均一・・という具合。こうした美術運動は「ミニマニズム」とも云われた。余分なものを削除して最小限の内容とすることから、ミニマリズムは音楽、料理、ファッション、家具などと多くの異分野にも影響を及ぼしたところが興味深い。ミニマリズムは日本的な無とか間といった空白の世界とも相通じるところもありそうだ。現代はあらゆる物質が過剰気味である。ミニマリズムを追求するとそれらの物質の意味を考える。最近はミニマル・アートという言葉は聞かなくなったが、いま、ミニマリズムはどうなったのかもう少し調べてみたい。
7月16日(水) 最近になって樹木や草花の「剪定」を覚えた。以前は植物に関しては名前や育て方などほとんど知らない植物音痴だった。植物などは自然が一番で、なるようになるという考えでもあった。それが植物の生育の仕組みや剪定の重要性を知ると、植物も人間の意志によって如何様にも変わるものだと教えられた。ある意味でショックだったのは、自然のままなるように任せていると先に伸びたところにばかり栄養がまわり花を咲かせ朽ちるまで伸び続けて、結果、新しい若い芽がなかなかでてこないことだ。花が咲いている最中に切り花とし、古い枝を思う存分切り取る、そうすると若い芽がどんどん増えてくる。自然というのは弱肉強食、適者生存(いわば既得権が有利)の世界であって、決して自然が最適とは限らない。人間社会でも活力を維持するには余程強固な意志をもって若い芽を育てなければならないと思える。そのためにできることは簡単、還暦になればみな後進に席を譲り勇気を持って(組織から)引退することだろう。
「今日の作品」に新作陶器「スーパー楕円皿」を掲載した。この皿は実用的に評判がいいので模様だけを変えたリピート品。模様は太陽(=日)と月で明るく!。(スーパー楕円は、2003- 5-12コラム参照)

7月17日(木) 猫語の翻訳機(?)、「ミャウリンガル」がこの秋に発売予定というニュースがいくつかのマスコミで取り上げられた。今朝の天声人語(朝日)にまで紹介されたのは驚きだが発売元のタカラは笑いが止まらないだろう。前に発売された犬語用の「バウリンガル」の時には我が家でも話題になった。調子に乗って妻が買おうと云いだしたが息子に言下に「1時間で飽きるよ」と云われて止めた。無駄なものを買わないことはない。実用性はなくても、面白いもの、心豊かになるもの、技術にほれぼれするものならば購入したい。ただ、1時間はともかく、3日で飽きるものは欲しくはない。「飽きる」の英語、tireが「疲れる」と同じ言葉であるのが象徴的だが「飽きる」は個人差が大きく、善し悪しとはまた別問題にみえる。仕事に飽きることもあるし、飽きのこない「この道一筋」もあるが、飽きるから人も物も進歩する。犬語と猫語の翻訳を試しに聞いてみるのも面白いかも知れない?
7月18日(金) 少し前のニュースで、米国の女性技術者団体が、科学技術分野で特に功績があった女性を表彰する「殿堂入り」に、日本IBMの研究員、浅川さんを選んだことが報道された。その後、NHKの特集番組で紹介された浅川さんをTVで見ることも出来た。なんと浅川さんは中学生の時に失明した全盲者だ。浅川さんは視覚障害者向けの支援システム開発の携わり、キーボードの点字入力システム、インターネットの音声読み上げソフト、点字図書の閲覧ネットなどが評価されたという。音声読み上げソフトなどは視覚障害者だけではなく、健常者向けにも非常に有用で注目されている。浅川さんがプログラムを組むときは、まず頭の中にコード(機械語の数字)が浮かんで、それをキーボードで打ち込みをした後、また手でアウトプットをチェックする・・などとTVで語っていたのが印象的だ。全く目が見えない人が常人以上の活躍をする。その努力は想像を絶するが、全盲の人がコンピュータで立派に仕事をするのは浅川さんに限らず、いまはコンピュータは視覚障害者の必需品ともいえるようだ。こうした人々の話を聞くにつけ、人間の底知れぬ力に感動する。何も障害もない我々は甘ったれたことは云えない。
7月19日(土) 我が家の池には今10匹の金魚がいる。小さな池であるが金魚鉢よりは自由に泳げるせいか、大きいのは20cmほどの巨大金魚に成長する。少し前に息子夫妻から4匹の金魚を引き取ったので合計10匹になったのだが、息子達は金魚に名前を付けていた。そのまま他の金魚にも名前をつけたところ、いままではほとんど気にしなかった金魚が非常に親しみ深いものになった。それぞれに野球チームのように背番号と名前があるが、「高見盛と武雄山は今日も元気だな(相撲取りの名前が多い)」、「ジョニーはいつもすばしっこいな・・」など、個体差が一目で分かるようになった。金魚とか雑草という大ざっぱな呼び名では、個々の識別ができないのが名前だけで全く認識の仕方が違ってくるのは驚くほどだ。人の場合も、学生とか社員という集団の呼び方でなく個々の名前で呼ばれることで人格が認められる。反対に自分の名前を正しく記憶されていないと不愉快になる。もう大昔の話であるが勤め人時代にある上司が私の名字(漢字)を何度も間違えたのをまだ忘れない。金魚の名前は絶対に間違えないぞ・・。
7月20日(日) 何年も前に紛失して見当たらなかった万歩計が昨日姿を現したので早速また使ってみた。久しぶりに万歩計をつけて一日を過ごすと意識過剰になる。朝、犬の散歩でヒルサイドテラスー猿楽神社ー八幡通を通って西郷山公園までの往復で約3000歩。まずまずであったが今日は日曜日で特別の運動予定はなし。その後は自動車で10kmの距離を往復2回と距離は移動したものの自動車利用で歩数は増えない。夜の9時過ぎになって酔い覚ましを兼ねて犬の散歩にでかけた。家の側まで帰ってきて気がついて万歩計をみると9600余。このままだと一万歩に達しない・・と、少し遠回りをする。家の前ではジグザグに歩き、先ほど家へ戻ってきた。万歩計をみると、10137。おめでとう!ようやく目標一万歩を達成した。こういうのを万歩計効果と云うのか。ついでに毎日の歩数を記録するともっと効果てきめんだろう。それにしても家の前で足踏みをして、一万歩達成しても余り意味はないことは確かだけれど・・。
7月21日(月) 「海の日」で休日。7月の第三月曜日に「国民の休日」が実施されるのは今年が初めてというが(これまでは7月20日)、今日は「海の恩恵を感謝する」(=休日の趣旨)晴れやかな気候ではない。天気は全国的に梅雨空が続く。今日は何の日?と調べると、1969年のこの日、アポロ11号が月面に着陸した日であることが分かった。「この一歩は小さいが、人類にとっては偉大な一歩」とアポロのアームストロング船長が名コメントをだしたその日だ。このニュースを私は長期滞在中のインドで知った。現地では40度近い暑さで、この時期には膝までつかる大雨が降ることもあった。肥料工場に納める機械の調整のため文字通りドロドロになって仕事をしている最中に、インド人の友人がアポロのニュースを我が事のように説明してくれたことを鮮明に思い出す。人類が月に到着してまた地球に帰還するという大事業からもう34年も経っているのが感無量だ。いまも昔も変わらないであろうは梅雨の空。奈良にいる雨中の鹿も昔と同じであろうか。「雨の鹿 恋いに朽ちぬは 角ばかり」(蕪村/これは秋の詩?)
7月22日(火) 「今日の作品」に「インドネシア人形」を掲載した。他人からいただいたものだが、姿形もよくできているし、腕の関節や首の動きが実にいい。大好きな人形なのでいつか描きたいと思っていた。私はインドネシアには行くチャンスがなかったので、このような人形がどう使われるのか知らない。描いたついでにインターネットで少し調べてみた。この人形はインドネシアの「ワヤン・ゴレッ」と呼ばれる人形芝居で使われる人形と同種のものと思われる。ただ、両手に付けられた棒で微妙な仕草などを演じられるのはわかるが、頭の部分をどうやって動かすのかよく分からない。インドネシアの有名な影絵人形も両手に結んだ細い棒で演技をさせるのは同じであるようだ。この人形も影絵用の人形も共に「ワヤン人形」の範疇に入るのだろう。インドネシアのワヤン人形、西洋のマリオネット、日本の文楽(人形浄瑠璃)の人形など、人形をみるだけでそれぞれの文化の奥深さを垣間見ることができて面白い。
7月23日(水) 時に啄木の歌などみるとホッとすることがある。考えてみると石川啄木(明治19年=1886-1912)は26歳で早世しているので、20代の若者の歌に癒されていることになる。そんなことを云えば、やはり20代のモーツアルトの音楽にどれほど多くの人が感動していることか。心を打つものに年齢は関係がない。以下の「一握の砂」は啄木24歳の処女歌集だ。「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ 」、「こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ 」、「はたらけど はたらけど なほわが生活楽にならざり ぢっと手を見る 」、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ 」・・・今の20代の若者は啄木の歌をどうみているのか興味がある。
7月24日(木) 政治家が「マニフェスト」などと訳が分からぬ言葉を持ちだすと、「具体的な数値目標を定めた公約」程度に翻訳して理解しなければならない。こんなカタカナが一般化しないことを祈るが、日本語でいまやポピュラーになってしまった「活性酸素」という言葉が気に入らない。どなたがこの単語を普及させたのか知らないが、専門家というのは極めて狭い視野で不用意に言葉を使う。「90%の病気が直接、あるいは間接的に活性酸素によって引き起こされる」といわれるほどに、超悪玉の活性酸素は、言葉のニュアンスからは善玉を想起する。社会の活性化、activeな人など「活性」はプラス指向だし、「酸素」は生きるための基本だ。活性酸素は体内に侵入してきた細菌や異物を攻撃して身体を守る化学物質だが過剰に増加し過ぎた場合、自分の組織をも破壊して癌をはじめ多くの病気の原因を作ると説明されている。それならば過剰な部分だけが悪玉になる。過剰に増加した活性酸素を除去する物質は、SOD(=Superoxide dimustase )と呼ばれ、「活性酸素消去酵素」という言葉はほとんど使われないようである。活性酸素(active oxygen)は英語ではreactive oxygen(反応性酸素)とかfree radical とも云われるときく。そうすると、活性酸素の代わりに、悪玉反応性酸素とか過激酸素とかはどうだろう(SODは過激酸素消去酵素だ!)・・と今更無駄を承知で考えた。
7月25日(金) 今日、蛇に出会った。場所が場所ならば改めて書くほどの話題でもないだろうが、私にとっては東京でこの前に蛇を見たのがいつであったか思い出せない。少なくともこの10年間に足で踏みつけそうになるほどの蛇との出会いはない。それが梅雨空のなか出かけた五島美術館で蛇に会うとは思いもしなかった。五島美術館(HPはここ)は東京・世田谷(上野毛)の閑静な住宅街にあり、日本と東洋の古美術を主体としたユニークな美術館だ。今日は「茶の湯の造形」(7月27日まで)を見に行った。陶芸をやるようになってからは、墨跡や茶杓よりも、花生や茶碗に興味がいってしまう。鼠志野茶碗、長次郎赤楽茶碗、伊羅保茶碗、さらに、古備前耳付花入などたっぷりと楽しんだ。その後、雨も降っていなかったので、5千坪といわれる広大な庭園を散策しているときにすぐ足下に蛇がでてきた。私が蛇年生まれのせいでもないが、今は蛇も何か貴重な生物のような気がする。怖がる妻には蛇に会えるとはラッキーだよといった。お金が貯まるなどいいことがあるかも知れない・・。
7月26日(土) 陶芸をやるようになって絵の描き方が以前より分かるようになった気がする。陶芸の場合、とにかく他人と同じものを作りたくないので、オリジナリテイにこだわってきた。立体の形状は絵画の二次元と比べると造形としての選択肢はより多く可能性が多い。アイデイアが浮かぶとまずノートにメモしておき、それを元に具体的な大きさやプロポーションを「設計図」として作成する。次にダンボールで模型を作り検討をする。その段階で焼き物にする場合の収縮度を考えて粘土の寸法を決めて、粘土の設計図を描く。陶芸教室にいって粘土をこね始めるのはそれからだ。これまでの自分の絵画の描き方をみてみると、ほとんど衝動的な、行き当たりばったりの描き方がほとんどだった。陶芸のような計画的な下絵や検討がない。だから、気分が乗ればそれなりに描くことができるが、どこにでもある絵に嫌気がさすこともあり、オリジナリテイを考えると描けなくなってしまう。絵画にも陶芸以上のアイデイアと綿密な計算を加えればもう少し新境地が開けるかも知れないと思ったのが、冒頭の感想だ。勿論、こんなことを言うは易し。何でもそうだが理屈や評論はたやすい。どんなアウトプットをだすことができるか、それが問題だ。
7月27日(日) 今日は「土用の丑」の日。古代中国の暦法(陰陽五行説)によれば、季節も五つに分類して、春=木、夏=火、秋=金、冬=水、それぞれの季節の終わり18日間を「土用」とした(立夏・立秋・立冬・立春の前の18日間と同じ)。「土用」のはじめの日が土用の入り。十二支を一日ごとに割り当てた暦で、土用の入りになってはじめに来る「丑の日」が「土用の丑」と解説されている。それぞれの季節毎に土用の丑の日がある訳だが、今は夏の土用の丑だけが、うなぎを食べる習慣と合わせて話題になる。うなぎを食べる習慣は江戸時代に平賀源内が鰻屋の宣伝用に「本日土用丑の日」と看板を立てて大ヒットしたことに由来するという説が有力だ。我が家では、インターネットで評判のよいうなぎ屋を調べて一週間前に出かけた(家から歩いて行くことができた)のだが、これがハズレだった。ネットの評判も案外当てにならない。さすがに、江戸時代以上に大宣伝されている今日この日、またうなぎ屋に行く気はしなかった。
7月28日(月) 「今日の作品」に「影(ワヤン)」を掲載した。7月12日に掲載した「アルマジロ」と同じ黒の四角(芯は赤)模様を使って(上下を逆にして使用)別のイメージを描いたもの。この絵は計画も何もなし、ただ成り行きで「影」が出来上がった。中央のスペースにインドネシアのワヤン人形の顔を描いたので題名をワヤンの意味する「影」とした。ワヤンは影といっても単純な影絵の影というより、人間の心の奥底にある情念とか魂を語るものとされる。絵は何を描いても”影”が出てしまう。7月12日のコラムでは、同じ黒の四角模様を使って「四角の配列はそのままで、背景を変えてあと数枚、同じ絵を描くと面白いかも知れない」と書いたが、更に次の絵を描いてみたい。この絵の中で一番手間のかかるのは、ベースとなる黒の四角。コンピュータで描くのなら四角の絵は簡単だけれども・・などと思う。
「影」にちなんで季節感のある俳句を転用させていただこう(無断使用謝):「打水や砂に滲みゆく樹々の影 (亜浪)」、「緑陰の一つの影を連れて出づ(静水)」

7月29日(火) ありきたりの発想ではなく何か新しい突破口を求めたいとき、本棚から取り出してみる本の一つに「武田秀雄の世界」がある。本の帯には「大英博物館で個展を開いた世界で最初の漫画家」と紹介されいるが一般的には武田秀雄(1948-)はそれほど有名ではない。「オレは漫画家だ、芸術家なんかじゃない!」と武田秀雄は主張するけれども、世界は武田の線の見事さに酔い、独創的なアーテイストと認めている。「源平」など日本を題材にしても誰もなし得なかった独特のアート世界(エロチシズムを昇華させた不思議なアート)を作り上げる。セールスネットに乗った著名な人の作品が必ずしも刺激的でなく、また時代を超越した価値があるとは限らない。反対にそれほど有名でなくても凄い成果を残している人が世の中にいることを武田は教えてくれる(武田は知る人ぞ知る有名人かもしれないが)。<武田の公式サイト=ここ=ではそのユニークさを垣間見ることができる。オススメ!>
7月30日(水) このホームページのプロバイダは数年間で何度も親会社の名前が変わった。それほどにプロバイダ商売も激烈な競争に晒されている。この間ホームページのアドレスは変わらずに使えたのが幸いだった。このプロバイダと別のケーブルテレビ経由の会社が最近名前が変更になり、CATVのついたメールアドレスを変えなければならなくなった(来春までの期限であるので直ちには以前のアドレスも使えるが)。インターネットで新しいメールアドレスを取得(登録)するのだが、いつもながらこの種の手順の説明(ガイダンス)が非常に不親切かつ下手だ。POPアカウント、アクセスアカウント、POPアカウント初期パスワード(何が初期?)、アクセスアカウントパスワード・・まではいい。次には突如、「アクセスナンバーの入力」とくる。言葉の統一性がないのは序の口。コンピュータで何も悪いことをしていないのに「不正な操作をしたので・・」と勝手なコメントがでるのと同じように、理解しないこと、上手くいかないことは全て操作側の責任にされてしまう。こちらは適当に処理できたが、仲間内だけの納得でなく外部へ伝達する言葉の訓練がこの業界の大きな課題と思われる。「他人への説明能力」は人への思いやりがなければできない非常に高度なものである。
7月31日(木) 思い立って書道を始めた。絵筆は持つが書道の筆を持つのは小学生の頃にほんの少し習って以来、実に半世紀ぶりだ。やるからには基礎をしっかりと練習しようと教則本にしたがって楷書の一の字(横棒)からスタートした。縦棒が意外に難しい。絵を描くときと決定的に異なるのは、書道は姿勢と息を整える必要があるということ。絵画も精神の集中とか勢い、繊細さなどを当然必要とする。けれどもやり直しのきかない書は身体の構えから入って真剣勝負を挑まなければならない。書道はどうも病みつきになりそうだ。絵を描くことにも随分ヒントになる。最近つくづく思うのだが、人生、好きでやることに無駄なことは一つもない。一見、関係がなさそうなものでも、それぞれが絡み合って全てが貴重な経験となり養分となって活きる。物理や力学を学んだことは勿論、数学でさえ創作活動に大いに役立っているのがうれしい。

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