9月1日(月) 月が変わり9月=長月。夜がどんどん長くなっていく。夜の遊びというと不純な想像をする人もいれば、また楽しい付き合いを思いだす人もいるだろう。今日の新聞に、シンガポールでバーのカウンターの上で踊る「バートップダンス」が解禁になり若者達には大好評で賑わっているとの報道がある。シンガポール政府は従来法律で娯楽やレジャーを厳しく規制してきたけれども、「社会が成熟した」との理由で最近次々と規制緩和に取り組んでいるという。思い出すのは数年前私がシンガポールに何度か出張した時、極めて厳しい喫煙規制で吸い殻一つ見当たらないほど街は清潔であるのに、観光客には今ひとつ人気がなく、シンガポールから飛行機でタイのバンコックにいって週末の夜を過ごすという人も多かった。ただ清潔です、安全ですというだけでは街に人は集まらない。人間の身体は極度に衛生的な環境で過ごしていると免疫力が低下してアレルギーなどの発生を促進することがあるので、”適度な非衛生状態”が望ましいとの話しがある。人間の社会でも適度に非衛生であっても免疫力で活性化された明るい社会の方が健全であると思える。その際、特に子供や若者は早めに免疫力をつけることが必要だ。免疫とは人それぞれの多様性を知った上で自分の道をとる勇気を持つことだろうか。ところで日本ではバートップダンスは当たり前?残念ながらまだお目にかかったことはない・・。
9月2日(火) 出来上がった新しい陶芸作品を「今日の作品」(ホームページ)に掲載するためデジカメで写真を撮ろうとしたら液晶モニターに画像がでない。試しにシャッターを押してみたが撮影もできない。しばらく時間をおいて再度スイッチを入れても同じことだった。少し前からこのデジカメは液晶が消えてしまったり、オートフォーカスが出来なかったり、撮影できたと思ったら画像に横線が入ったりして、まともには使えなかった。先日、サービスセンターで見てもらったら修理費は約2万円との見積もりがでたので修理にもださずに様子をみていたものだ。カメラのサービス員は家電並みの寿命と考えてくださいという。私が「はじめは電子技術の不慣れなところがあったとしても最近の製品では故障率やクレーム率は下がっているのでは・・」とメーカーに同情的な助け船を出したところ、いや、新製品も新しい試みは同じ事なので故障率は変わりませんとの返事であった。数年も経たずに全く写らなくなるカメラを製品として異常と見ないのであればこちらも考えを改めなければならない。ちなみに、このnikon-coolpix950を購入したのは1999年4月29日であった(故障さえなければお気に入りだった)。・・ところで結論。故障を怒っているだけでは何も進まないので、渋谷に出かけて、新しいデジカメを購入してしまった。意地でnikonはやめて今度はcanon(記憶媒体のコンパクトフラッシュが共通にて)。前とは価格が3分の1で機能はアップしている。明日には新デジカメでホームページを改訂するのが楽しみ。
9月3日(水) 近所で違法な貼り紙が後を絶たない。早朝、犬(アール)の散歩をしている時に、チワワを三頭連れた外人が散歩しながら電柱に縛り付けられた張り板(違法)を端から全部取り外しているのをみた。触発されて先日私も家の周りの目に付いた貼り紙を犬と一緒に剥がして歩いた。マンションの入居案内の貼り紙が所構わず貼り付けられていて、電柱の貼り紙を剥がすと下から住居の表示がでてきたりする。わずか100m程度の距離で、20枚以上(!)を取り外しただろうか。我が家のゴミ袋は満杯になったが、ご近所は少し美しくなったように見えて気持ちよかった。冒頭の外人は自分の家の近所というのでなく、代官山の旧山手通りという誰もが通るメインの道路をきれいにした。こういう実行力はなぜか外人の方が優れている。自分のことを考えると、早朝と云えどもかなり人通りがあり、犬を散歩中の顔なじみの人を意識すると貼り紙外しなどできない。善行には勇気が必要だが、私などまだまだ実行する勇気が薄弱で、事なかれ主義が身に付いてしまっている。勇気はこれからの自分のキーワードである。
「今日の作品」に「照明付き花器(陶芸)」を掲載した。照明部分が気に入っている。
9月4日(木) 寸暇を惜しんで・・でもないが、気分転換に今年の芥川賞を受賞した「ハリガネムシ」を読み始めた。まだ読後感を書くことはできないが、いまは三分の一で挫折している。小説とはこんなに重く、暗いものだったのか・・という感じ。「人間の内部にハリガネムシのように寄生する暴力性や肉欲や獣性を描いて・・」とか「自暴自棄の底にあるもの・・」とか選者のコメントがあるが、読者は何を求めて小説を読むのか考えてしまう。絵画であれば、どんなに重い絵でも、例えばルオーや香月泰男などの絵を目の前にして5分間じっと見詰めるだけでエネルギーをもらいうけて元気になる。けれども、この小説の読者はどこでやる気をもらい希望を見いだすのだろう。何に快感を覚えるのだろう。選考委員の女性三名(河野多恵子、高樹のぶ子、山田詠美)がそろってこの作品を推薦したという。そうか、私は選者の小説も知らない。元来、現代の小説には馴染まないのかもしれない。とにかく、努力して読了を目指す・・。
9月5日(金) 芥川賞を受賞した「ハリガネムシ」(吉村萬壱作)を読了した。感想は昨日のコラムで触れたのと変わらない。立派な賞を受賞した小説であるから物語の構成など優れているのは分かる。シロウトとしては、そのテーマである「暴力・性」に辟易する。時代の問題点をえぐりだすのでなく、時代に迎合しているように思えてならない。またか・・と食傷して胃も受け付けない。昔から小説家は普通人が気がつかない深層心理や人間の機微を巧みに取り上げてきた。さすが小説家、”これまでにない”人間やテーマを描いた、というものが読みたい。音楽の世界では有名コンクールが若手の登竜門として力をもってきたが、結局は演奏の実力でその後の活動が評価されるのでコンクールも徐々に変質しているようにみえる。小説家の登竜門とされた芥川賞も、昔とは違い、その後の作品で評価されるのは音楽界と同じ傾向だろう。想像力豊かな作家は現実を超越した元気のでる物語もできるに違いない。
9月6日(土) 「気韻生動」という言葉がある。辞書でみると、「気韻=すぐれた作品を見たり聞いたりした時に感じられる崇高な何ものか」、「生動=(描かれたものが)筆力が強くて今にも動き出さんばかりの勢いをみせること」とある(各、新明解/三省堂)。元来は5世紀の中国美術(山水画など)で「絵画には六法がある」として定められた美の基準で第1に示されたのが「気韻生動」とされている。それは崇高な活力とでもいうべきもので、別の解説によれば「精神を活性化することにより絵に生命の運動が生まれてくるということ、精神の共鳴による躍動感・・」などの表現もある。驚くべき事は、この大昔の中国の美の基準が現代日本でも全く違和感がないばかりでなく、ヨーロッパの近代、現代の芸術全般に生き続けていることだ。自分でも美術品を見る場合、上手、下手とは別次元の「気韻生動」を見ていることに気がつく。近頃は、ふと、年齢にかかわらず、人にも気韻生動があるように感じてきた。中学生などにこの言葉の意味を教え、サンプルを観賞させると人生が豊になると思うがどうだろうか。
9月7日(日) 「今日の作品」に「唐辛子」を掲載した。昨年の10月にやはりトウガラシを描いたことがある(ここ)が、今回はまだ生きている鉢植えの唐辛子を描いた。画像では見難いが上の方に二つ白い花が可憐に咲いている。赤と緑の唐辛子(青唐辛子というのか?)が、中間色がなく、こうもはっきりと 混在しているのが面白い。唐辛子の辛み成分、カプサイシンの効用が身体に極めてよいとか、料理法がどうとかは余り興味がないが、唐辛子を英語で何というか気になった。辞書を引くと"red
pepperとか、cayenne pepper,green pepper" とある。pepperといえば、ペパー=コショウだ。green
pepperはピーマン(ピーマンはフランス語)でないか。トウガラシの木はやはりpepper? ついでに、ショウガ(生姜)はginger、ワサビはhorseradish・・。どれもいまひとつ日本産のイメージとはピントが合わない。こうなれば”ショウユ”のように日本語で通用するのが一番安心だ。・・ところで、今晩のおかずは絵に描いた赤唐辛子一つを使ったイカとコンニャクとネギの煮物だった。
9月8日(月) 妻と小石川後楽園にいった。家から30-40分の距離であるのに、これまで一度も訪れたことがなかったのはどうしてだろう。江戸時代の初期(1629年)に水戸藩主、徳川頼房(家康の息子)が中屋敷の庭として造園し、その息子である水戸光圀が豪壮かつ優美な趣に完成させたという庭園。ここでは隣接した後楽園球場(東京ドーム)の喧噪とは別世界で、周りの高層ビルが池に影を落とすが、それも都会の中のオアシスとして庭園の有り難さを一層引き立たせてくれるものに思えた。水戸黄門(水戸のご老公、1628-1700?)で知られる光圀は、ドラマのように諸国を漫遊し悪を懲らしめることもなく、実際には水戸藩の領地からほとんど出ることなく一生を過ごしたと聞くと、少しガッカリするが、中国の史記にならって「大日本史」を30年かけて編纂するために、日本全国の情報を部下に集めさせたというから、情報収集が悪を抑制したことはあるかも知れない。庭園の入り口に光圀の肖像画があった。黄門さまというと専らTVドラマでの西村晃のイメージがしみついている(私には石坂浩二は黄門様にみえない)ので、本物の肖像も別人のように見えたのがおかしかった。庭園の一角でスケッチブックを広げたが、ヤブ蚊の大群に襲撃されたので、絵は途中まで描いたところで止めてしまった。次回の屋外スケッチはなにがなくても蚊対策・・。
9月9日(火) 「何が欲しい?」と問われて何と答えるか・・。満ち足りた生活を送っているのか、欲しいものが即答できない結構なオトナも多い。いくつになっても欲しいものが山ほどあり、やりたいことは際限ないというのは一つの理想体である。いま、欲しいものはと聞かれたら、私は新型AIBOと答えよう。11月初旬に発売開始になるソニーの犬型ロボットのAIBOニューモデルは初代のメカ的な外観を復活したようにみえる。AIBOもモデルチェンジを重ねて女性の好みに合わせたのか、前の型など可愛いぬいぐるみ風になって興味がなくなっていた。今回のものなら手に入れても面白そうだ。ただし、欲しいといっても、18万5千円を払って実際に購入するほどの道楽はしない。ロボット犬はあくまでもメカとしてどこまで開発されたか、性能に興味がある。我が家にはれっきとした本物のコーギー犬、アールがいる!新型AIBOは、骨をくわえるとか、感情を色で表すとか、足元の段差や障害物の感知するとか、性能を聞けば聞くほど、アールのすばらしさを見直す(当たり前だ!!)。さて、今からアールと夜の散歩に出かけよう・・。
9月10日(水) 昨日(9日)はこのコラムを書いたあと、夜9時前にアール(コーギー犬)を連れて散歩にでかけた。東京地方は日中は蒸し暑かったが夜風は涼しく気持ちがいい。ふと空を見上げると、ほとんど満月(11日が中秋の名月)に近いまん丸の月の右下に寄り添うように星がみえる。何の予備知識もなかったが、直ぐに「火星だ」と納得した。月の直径を10とすると、2程度の直ぐ側で月にも負けず輝いているのは火星しかない。ちなみにこの東京の空でこの星以外には星を一つもみることができない。8月27日に火星が6万年ぶりに地球に大接近したことはニュースでは知っていたが天気も悪く接近した火星を見ることはできなかった。それが地球からは遠ざかりつつあるとはいえ、偶然、こんな月とのランデブーに出会えて幸運としか云いようがない。月と火星のこれほどの大接近は私たちの生涯でもう二度と見られないと、アールにも空を見させたけれど、見えただろうか。・・今夜(10日)の東京は雲が多い。しばらく雲がきれるのを待って一瞬満月を認めたが星はみえない。月がまた雲に覆われてしまったとき、かなり離れた雲間に火星を見つけた。月と火星のランデブーは昨夜限りの逢瀬であった・・。
9月11日(木) 長寿の人がどのような食べ物を摂取しているかを紹介し、専門家が栄養学からその食物が如何に有効かを解説するテレビ番組が飽きもせず続いている。独断すると、そのお年寄りが長寿である要因の10%程度は食べ物にあるかも知れないが、残りの90%はその人の生活習慣によるものでないか。そこに登場する老人はそろってよく動く。自分でやる仕事を毎日きっちりとこなし他人に頼らない。みな明るく話をし、ストレスや心配事などないようにみえる。同じものを食べていても生活習慣が逆であればとても長生きはしないだろう。・・そんなことを感じていたら、最近、ガンもタバコとか排気ガス、食物添加物など外的要因よりも内的要因つまり心の持ち方の方が重要であるというレポートをみた。要は精神的なストレスをためずに、リラックスすることにより身体の免疫力が正常に働き、ガン細胞を増殖させないので、結果的にガンにならない。人の体内では百万個のほどのガン細胞が毎日生まれ、それを免疫体であるリンパ球が殺すという。身体の中では細胞の生き死にの微妙なバランスで健康が保たれているので、免疫力を弱体化させないために「精神」(=自律神経)が最も重要になるとされる。どんな薬を飲むよりも、心の持ち方一つで有効に自分を守ることができる体内の防衛システムを創りだした創造主とは凄いものだ。
9月12日(金) このところ油絵を描く際に自分がどう描いていいのかわからなくなっていた。批評するのは簡単だが自ら実行し結果をだすことが一番難しい。今日、昔の友人の絵画展にいって自由でのびやかな絵を見ているうちに自分の雑念が洗い流されるような爽やかな気分になった。自分自身の反省を記せば、描けないことを理由に描かないことは最悪だ。友人は何がなんでもノルマで描いているうちに結果をだしている。それから新しいこと、他人がやっていないことにこだわり過ぎるのもよくない。他人の目を意識せず、自分の思うように表現することで自然と個性がでる。友人の個性ある作品をみていると、結果の見えない自分が情けなくなった。同時にムラムラとやる気が湧き上がったのも確か。初心忘れるべからず、そして、Return
to Baseline !
「今日の作品」に「丸屋(後楽園にて)」を掲載した。9月8日小石川後楽園に行った際スケッチした絵を家で色をつけたもの(9月8日コラム参照)。これからは、スケッチでなく過激な油絵を描きたい・・。
9月13日(土) 「附子(ぶす)」という狂言が好きだ。附子(ぶす)はキンポウゲ科の多年草であるトリカブト(8-10月頃青紫色の兜状の花を咲かせる)の根を乾燥させた毒薬だが、漢方では消毒加工して強心、鎮痛、利尿などの薬としても使われるという。狂言の「附子」は、主人が入れ物に入った砂糖を、大毒の附子だから近づかぬようにと言い聞かせて外出する。留守をあずかった太郎冠者、次郎冠者は興味を持って恐る恐る蓋を開けて中味をみるが砂糖だと見破って全部食い尽くしてしまう。言い訳に困って、主人の秘蔵の掛け軸や茶碗を次々に壊す。ご主人様の大切な品物をこわした上は、「生けては置かせられまいと存じて、附子を食うて死なうと思うて・・」。「一口食へども死なれもせず、二口食へどもまだ死なず、・・十口余り皆になるまで食うたれども、死なれぬ事の目出たさよ」。・・京都の細見美術館(ここ)には「附子」というお土産がある。この美術館でしか手に入らない素敵なデザインの包装の中味は、勿論、トリカブトの猛毒ではない、特製のおいしい水飴だ。
9月14日(日) 昨日、テニス場で友人が木の切り株の側から新しい芽が出てきているのを指さして、「あれを何て云うか知っているか」と問うた。こちらは思いつかないので「知らない」と答える。”ひこばえ”だよと教えてもらったが、言われるとそうかと思うが直ぐにはでてこない言葉だ。悔しいのでこの際「ひこばえ」を調べてみた。ひこばえは漢字では「蘖」(私のワープロではでてこないのでコピーして使用)と書く。辞書では「(孫生=ひこばえの意)伐った草木の根株からでた芽」(広辞苑)とある。ちなみに「ひこ」は孫の意と曾孫(ひまご)の意があると辞書にはあるが私は孫の子供を”ひこ”と使う。”ひこばえ”の新しい芽吹きを生命力の象徴ととらえることもできる。切り倒されたり、踏みつけられたりしてもたくましく再生する蘖(ひこばえ)をみて勇気づけられる人も多いだろう。蘖は剪定ではなく本体全てを伐採された跡からの再生であるので余計愛おしい。こんな俳句があった:ひこばえや親爺
が説法何処の空
9月15日(月) 我が家の金魚、高見盛や赤星たちは遅れてきた夏を満喫するように元気いっぱい泳いでいる。阪神の赤星が9回裏、ライトオーバーのさよならヒットを打って広島を破った。この時点で阪神の優勝までマジック1。その2時間後、19時33分にヤクルトが横浜に負けて、18年ぶりに阪神の優勝が決まった。おめでとう!18年前には当時中学生だった阪神ファンの息子が日本シリーズの応援に西武球場にでかけてなかなか帰ってこなかったことを思い出す。18年間というのはそれぞれの個々人が歴史を作るほどに永い。次の阪神優勝が18年後とするとその頃の野球は世界シリーズを競うのだろうか。今回の「敬老の日」阪神優勝を境にして景気も上向きになるという予感がする。明るく盛り上がるのが一番だ。
「今日の作品」に「globe(陶芸)」を掲載した。余った粘土を使って球を作り、全面に貫通穴をあけて焼き上げた。何に使うか目的はなかったが唐辛子をさし込むと飾りになる。
9月16日(火) アメリカのSmart Signal
Corp.という会社がジェット機から時計まで機械部品の不具合が発生する前に警告をだすコンピュータシステムを販売して成功しているというニュースをみて、早速netで覗いてみた。このベンチャー企業(ここ)は確かに「電力、航空機、輸送機器などの故障の兆候を早期に検知するシステムをベースに警告システムを売り込んでいる。ニュースを読んだところでは検知ソフトを使うと「冷蔵庫や自動車が、自覚して『問題が起きそうなのでケアしてください』とユーザーに伝える」などいかにもインチキクサイ内容であったが、netで見る限り実用化されている範囲では技術的に驚くほどのものはない。例えば電力プラントでタービンの故障予知をすることなど個別の技術は日本でもいくらでもやっている。機械の特性を熟知した上で運転状況のデータを常時監視してトラブルが起こる前に警告するのは容易なことだ。ただし、どんな機械にでも応用できる汎用のシステムなどは眉唾(まゆつば)だろう。このサイトをみてもっと現実的な「警告システム」を思いついた。それは、人間の生活パターンのデータをコンピュータに毎日インプットし、そのデータをセンターで常時監視して(勿論net回線で)身体が具合悪くなる前に警告と指示をだすというシステムだ。食事の内容、歩いた時間、会話の時間、睡眠時間などのインプットをどう簡便にするか。ベンチャーのためにアイデイアを提供しよう。このシステムは売り物になる・・と一人細笑んでいる。
9月17日(水) 台所の戸棚を改造できないか相談を受けた。流しの下にある戸棚の湿気をなんとかして欲しいとのご注文だ。注文主からは扉をパンチングメタルにするという提案もあり、東急ハンズに材料をみにいったが、パンチングメタルでは寸法がマッチしないし色も選べない。それなら・・ということで、ドリルで扉に穴を開けた。4mmと10mmの穴を100個以上開けたが、空気の流通面積を更に確保するように扉の当たり部(4方向)のパッキンを取り去った。これで換気の通路はok。後はデザイン。10mm穴には手持ちのアルミパイプを差し込み、穴から数ミリ出っ張るように切断した。二個所はアルミパイプの出っ張りを40mmほどにして、これを扉の取っ手とする。3mm幅のテープ(青)を扉の枠の形に貼り、ついでに”模様”を入れて遊んだ。これで世界で一つの「kitchen扉」が完成。「今日の作品」にこの写真を掲載してみた。アール(コーギー犬)は扉の改造など関係ないという顔でいつものポーズをしている。注文主(妻)からはまずまずのご満足をいただいた。
9月18日(木) 昨晩、アール(コーギー犬)を散歩中に「マダム・トキ」はどこですか?と聞かれた。代官山・旧山手通り沿いにある一軒家のフランス料理店「マダム・トキ」(ここ)はよく知っているので直ぐに教えることができた。こちらは一度も店には入ったことはない。けれども、いつもハイビスカスやポインセチアなど鮮やかな花が入口に飾ってあるので、散歩で店の前を通るときにはしばし足を留める。今日は「マダム」という言葉で必ず思い出すことがあるので、これを書こう。マダムの語源はMa+Dame つまり、「私の女主人」であることはよく知られる。Dame(女性)の男性型はDon。ドンはお馴染みの「首領・親分」である。donの語源は、Dominus(権力者、領主)、<英語では、dominant(権力を握った、支配的な)など>。面白いのは、同じ語源で、危険=dangerがあることだ。辞書で説明してくれる:「danger=古フランス語で”君主の絶対的な権力”の意から”恐ろしい力”、そして”危険”の意になった(研究社、ライトハウスより)」。大昔から「危険」であるとみなされた絶対的な権力が今、現代の地球上でも存在しているのはやはり極めて危険なことだろう。マダムは勿論、今は奥様、危険な権力とは関係ありません、Madam。
9月19日(金) 美術の秋ということでもないが、「展覧会の絵」を聴きたいと思った。確か、LPレコードでこの曲を持っていたはずだと、古いレコード棚を順次調べていき、ついにエルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の組曲「展覧会の絵」(ムソルグスキー作曲、ラヴェル編曲)を見つけだした。最近、レコードをかけることはほとんどない。プレーヤーがうまく作動するかどうか心配しながら、針をレコードの溝に落とす。CDではない「レコードの音」が無事に聞こえたときにはホッとした。ジャケットがまた懐かしい。昔はレコード一枚一枚が宝物のように思えて、ジャケットの隅々まで眺め回しながら曲を聴いた。当時、レコードを購入した時に、ジャケットの内側に目立たないように購入日を書いたことを思い出して、中を覗いた。そこには・・「1961・3・25」の文字。二十歳の春休みに聴いた音が、40年以上を経て今また新たな感動を与えてくれた。
「今日の作品」に「小皿(陶芸)」を掲載した。陶芸としては特に変わり映えしない。皿の裏には孫が3歳になった記念の手形がある。「今日の作品」欄にしばらくは文字通り毎日の成果を載せるのも一興かと、あえてこうした小品も取り上げてみた。
9月20日(土) 9月というのに連日続いていた残暑が雨とともに納まり涼しくなった土曜日。今日のトップニュースは自民党の総裁選での小泉再選。政治がらみの話題は10人が10通りの感覚で受け止める。総裁選など所詮コップの中の争いであるが、対抗馬の小泉攻撃で気になるところがいくつもあった。例えば、亀井応援団の先生いわく、「小泉は外国でオペラをみたり美術館を訪れるのに、地方の中小企業の困窮状況を見に来ない・・」、週刊文春に「独占手記」を掲載した野中広務いわく、「(イラクで)自衛隊員が死ぬ可能性を考えていたら、なぜ、息子をタレントにしたのでしょう。・・安全だというなら、まず息子を自衛隊に入れて、行かせる覚悟を見せなさい・・」。些細な言い回しに本性が現れる。こういう論旨で人を攻撃することも驚きであるが、それ以上に、自分の息子を親の所有物のように思いのままという心理が理解できない。21世紀の一応文化国家であるこの国での議論はもう少し余裕のあるものにならないものか。野中氏(77歳)の引退声明は遅きに失するが大歓迎。この大権力をもって政治を操った人物が、静かに、そして、本当に引退すれば、清々しいのに。「手記」は余計だった。・・雨降って地固まるか、台風接近で雨が強くなってきた。
9月21日(日) 9月17日に「今日の作品」に「台所の戸棚」(改造)を掲載したのに続いて、今日は「椅子」(修理)を載せた。このところ絵画作品の成果はみせられないが、家具のリフォームにご執心だ。台所の改造も椅子の修理も「作品」と思えばやりがいがでる。この椅子は20数年前に購入したワシリーチェアと呼ばれる有名な椅子(ここ参照)。椅子のデザインはハンガリー生まれのマルセル・ブロイラー(1902-1981)。1925年に当時勃興期にあった自転車産業のパイプ加工にヒントを得て、パイプを曲げただけのシンプルな形状の椅子を作りだした。ワシリーの名は、ブロイラーがデザインのメッカ、バウハウスで仕事をした際、やはりバウハウスに教授として招聘された画家、ワシリー・カンデインスキー(1866-1944、モスクワ生まれ、後にドイツ国籍)のためにデザインしたのでその名がついたとされる。今回修理した椅子は、20年以上使用して、キャンバス布の部分が汚れ、ほころびた上に、張り替えもままならず、何度か廃却しようとしたもの。布の染め直しも失敗し、今回、キャンバス地に思い切って白の塗装をした。目つぶし後、下塗り、中塗り、上塗りとかなりこだわって仕上げた。どうせ新品ではないのだからと、これまた模様をつけて遊びを入れた。修理が完了してみると、長年冷遇されていたこの椅子が生き返ったように輝いてみえる。
9月22日(月) 最近、人間を含めた生物の「中庸」の仕組みにあらためて感動する。中庸といっても孔子の唱えた徳ではなく「過不足のないことをベストとする」といった意味合いだ。いわば、「ほどほど」がいい、「過ぎたるは及ばざるが如し」。先日、朝顔が元気がないので植物の栄養剤を毎日与えていたら、栄養過多で逆にもっと弱ってしまった。植物はまた水を絶やしても与えすぎても育たない。人間の免疫力は”適度の”不衛生な環境で身体を健康に保つ。極度な無菌状態を続けると免疫機能が劣化して返って大きな病気を引き起こす。子育てなど厳し過ぎるのはよくないが、甘やかせ過ぎはもっと駄目。子供の友人にしても、適度な悪友の方が本人を強くする。成長や生命維持のメカニズムは”極端”を嫌う。儒教が中庸として説いたのは、「偏らない過不足の無い徳」のことで、その極意が「誠」というが、”徳”までも中庸がよしとしたのは、意味深長だ。勿論、孔子(あるいは中庸を説いた作者)は、神の摂理として「ほどほどがベスト」という生物の仕組みを見抜いていたに違いない。
9月23日(火) 秋分の日、自転車で都内をたかが20km足らずを走っただけで尻を擦りむき、ひ弱な身体を露呈した。自転車に乗っていると同じ自転車仲間の無謀運転が目についてしようがない。自転車の規則無視が余りに多いので、自動車が信号できちんと停車し、交差点では徐行することさえ、模範運転にみえる。自転車は自動車に比べると弱者である。以前経験したことであるが、ほとんど停止している自動車に自転車が横からぶつかったとすると、いくら自転車が無謀な運転をしていたとしても、「自動車の不注意」で処理されて、弱者である自転車の過失は問われない。しかし、自動車と比べると小さいから、弱いから、自転車は悪くないというのはおかしい。自転車も歩行者と比べると強者であり、凶器にもなる。自らを弱い弱いと云いながら図に乗っていると、実は凶器を持つ強者に変身していた・・とは、新聞・マスコミなどにも似た例があるが、どの世界にもしばしば見られる類型である。 とにかくも、自転車に乗る一人としてSafety
Firstでいこう。
「今日の作品」に「深茶碗(陶芸)」を掲載した。陶芸仲間から、お茶碗とは珍しいですねと云われた作品。
9月24日(水) 東京・秋葉原で小型の特殊換気扇を手に入れた。家でみるとインドネシア製。接続コードも付いていないので、あり合わせのコードを換気扇の端子に半田付けをすることにした。半田ごてや半田、その他必要なものを道具箱からとりだし、久しぶりに半田付けを始めると、「昔取った杵柄」で懐かしさが込み上げてきた。昔は電気工作で半田をよく使った。半田の溶けるタイミングを見ながらイチ・ニ・サンと数えてサッとこてを離す。その後直ぐ接続部にフーと息を吹きかけ冷やす。こんな子供の頃にやった仕草が今も活きる。半田は錫と鉛の合金で、面白いことに、錫の融点=232度、鉛の融点=327度であるが、錫60%,鉛40%の半田は融点は約180度に低下する。低い温度で金属同士を結合させることができるので、半田付けは現代でも重要な技術である。私にとって半田作業は楽しみでもあるが、以前仕事の関係で電子機器のトラブルを原因調査すると半田の不良に起因することが多く、悩まされたことがある。どんなに立派な半導体技術があっても外部に取り出すためのリードの半田技術が安定しなければ故障を引き起こす。最先端のハイテクを支える技術の一つに半田技術があるといえる。私の半田付けは進歩していないが、電子機器の半田技術は格段に進歩したことだろう。
9月25日(木) 犬の散歩の途中、立ち寄った公園で自生の彼岸花をみつけた。彼岸花は姿・形が独特であるためか、花としても他にはない異質なところがある。まず、名前がユニークだ。彼岸の時期に咲くことから彼岸花の名前がついたのは分かり易いが、曼珠沙華の名は法華経の摩訶曼陀羅華曼珠沙華からきたといわれる(梵語で赤い花の意)。彼岸花は、かわいそうになるほど、他の呼び名に不吉な名前が多い。いわく「死人花」「地獄花」「幽霊花」「キツネ花」「毒百合」・・・。日本中では何百という呼び名が存在するというから、それだけ身近な花でもあるのだろう。彼岸花の球根には毒っけがあるが、水に晒して食用にもできる。昔、飢饉に備えて墓の側に多く植えられ、実際に飢饉の時に彼岸花の根を食べて多くの人が飢えを凌いだと云われる。墓に咲くことも、不吉な名前も「花」とは全く関係がない。花はいつも美しい。
「彼岸花 忌みては見れど美しく(南畦)」
「今日の作品」に「深茶碗B」を掲載した。前の深茶碗と対の一つ。
9月26日(金) 副島種臣というと明治初期の政治家程度しか知識がなかったが、ふとしたことで副島の「書」を見てどういう人物か調べてみた。副島種臣(1828-1905)は佐賀藩の生まれ。幼名を枝吉次郎(31歳のとき養子となり副島)といい、子供の頃は猛烈な読書家で2万数千冊の書物を読破したといわれる。青年時代には、佐賀の有名な学校、弘道館の同窓である江藤新平、大隈重信らと親しく日本の将来を議論する環境にあった。明治政府では外務卿などを歴任、マリア・ルーズ事件(明治4年、ペルー船から中国人が脱走し、その船が人買い船と発覚、種臣は人道的な見地からペルー船を不当とし、裁判に訴えて200人余の奴隷を解放した)で、日本の独自外交を世界に知らしめた。政治家といっても学者的な素養の人であったようだが、その新鮮でオリジナリテイーのある書には驚かされる(例:ここ)。先の例でみる書「帰雲飛雨」の文字のすさまじいこと。現代の前衛書道に匹敵するような独創のセンスが明治初期のエリートに備わっている。まさに文化土壌の強靱さに圧倒される思いだ。
9月27日(土) 巨人・原辰徳監督(45)の交代劇はどうもクサイけれども、今のところ案外にマスコミはおとなしくみえる。去年は監督一年目にして日本シリーズ優勝、監督契約は3年、今年は阪神の独走を許したといえ現在2位とのゲーム差は1ゲーム。それがシーズン中の今、監督の交代など尋常ではありえない。ジャイアンツの渡辺恒雄オーナー(77)およびフロントとの確執は明らかだが、この場は原辰徳の気骨を応援したい。老害集団にたいして保身を考えずに身を引いて無言の反撃を加えるのは、さすが若大将!経営者とか教師にとって「部下あるいは生徒に腹が立った時には絶対に怒るな。可愛いと思ったときに叱れ」が大原則である。阪神の星野監督も叱ってばかりに見えるが、この原則に則り、褒め方が実にうまい。成績が悪いときに一番悩んでいるのは当人である。必要なのは叱責ではなく激励だ。励まし方のイロハも知らぬ巨人軍のフロントは失格であろう。
「今日の作品」に「スーパー楕円皿(陶芸)」を掲載した。スーパー楕円(説明は5月12日コラム参照)が気に入って、定期的に変種を作成している。
9月30日(火) 日曜日からアール(コーギー犬)を連れて伊豆高原で二泊してきた。。アールがリードなしで走り回るのも久しぶり。昨日は城ヶ崎の自然遊歩道を3時間かけて散歩した。岩に砕け散る大波と青い海を楽しんでいたのはアール以上に私たち、人間の方だろう。スケッチブックを持っていき絵も描いた。「今日の作品」に掲載した「幹(水彩)もその一つ。このような部分をアップした絵など心理的にゆとりがなければ描く気にならない。広い空と、青い海と、夜は沢山の星。それに元気いっぱいのアール。そんな一つ一つが特別なものに感じられた。ほんのちょっとした非日常で十分にリフレッシュできることを実感できた三日間だった。