これまでの「今日のコラム」(2015年 5月分)

5月1日(金)   <明日が息子の月命日・・・>
明日が息子の月命日になるので一日早く今日墓参りにいった。一昨日まで京都のお寺を巡ってきたので墓のある九品仏浄真寺の境内を通りなが京都のお寺との違いを考えた。京都の寺はほとんど例外なく手入れが行き届いていて美しい。特に庭園の維持管理がきっちりなされているのは気持ちがいい。拝観料をとる観光用の寺として当然かも知れないが遺産を確実に維持する熱意がなければできない。そこには、いつもお客様の目を意識した緊張感があった。一方、今日訪れた九品仏浄真寺はお寺の本堂、お庭など実に立派であるけれど見せるための美しさはない。そうはいっても一見、京都の寺と区別がつかない九品仏浄真寺の写真を下に掲載してみる。この寺はもう一息やる気を出せば更にすばらしい庭園をみせる観光寺にもなるだろう。東京にも浅草寺、増上寺、築地本願寺など観光名所として知られる寺もあるが、やはり、いずれも庭園を見せるタイプではない。東京でも落着いた庭園をみせるお寺巡りができるようにお寺はもっと変わっていいのでないか。
2015-05-01


5月2日(土)   <車の運転に県民性がでる・・・>
車の運転に県民性がでると聞いた事がある。今回、京都旅行をした際にバスの一日乗車券を買って、バスにもよく乗った。そこで、いささか驚いたのが京都のバスの運転の荒さ。比較の問題であろうが、フリーパスを持って東京のバスに乗り馴れていると京都のバスの急発進、急加速、急ブレーキなどにびっくりする。東京でよく乗る東急バスなどいかにも運転手教育が徹底していると思えるほど丁寧で慎重な運転をする。都バスでも乱暴と思う運転にはほとんど遭遇したことがない。わずか三日間の京都滞在中に毎日バスに乗る度に乱暴な運転が気になったから京都ではこれが当たり前なのだろう。一度、急停車などを繰り返すバスの中で女性客が”もどして”しまった。車内では助け合って介護したが運転手は多分そのことも承知していないように見えた。これらは”市バス”の運転手教育の問題と思える。一度だけタクシーに乗ったがタクシーは落着いた普通の運転をした。県民性(府民性)と片付けてはいけない。
5月3日(日)   <嬉しいのは手ごたえ・・・>
「嬉しいのは手ごたえ、悲しいのは口ごたえ」。先週、京都のお寺巡りの際に見かけた言葉だ。古希を過ぎた私の周辺では(今では七十は古来稀でないのは言うまでもないが)特に「手ごたえ」のある生活をしている人は元気に見える。「手ごたえ」とはどんな形にせよ誰かから認められていること。といっても大袈裟に”評価されている”ことを言うのではない。やっている事に対して”ありがとう”と一言感謝されるので十分。それが「手ごたえ」で本人のやりがいになる。「手ごたえ」は高齢者に限らず人の「生き甲斐」ともなるように思える。一方の「口ごたえ」は悲しいだけでなく、やりがいをなくす凶器となる。口答えが、ほんの少し変わると手ごたえにもなるのが言葉の微妙なところ。言葉一つが生き甲斐を奪うこともあれば生き甲斐を作ることもある・・。
5月4日(月)   <最近、碑文谷(東京‐目黒区)に行く・・・>
最近、碑文谷(東京‐目黒区)に行く機会が増えた。昨年、目黒区に転居してくるまでは名前を聞いたことがあるだけで一度も訪れたことはなかったが、碑文谷(ひもんや)にはダイエーとかオオゼキなど日常品を扱う大店舗が並んでいる。その他にサレジオ教会とかお寺、公園など特色のある場所には事欠かない。名前が珍しいので調べてみた。「碑(ひ、”いしぶみ”と読む)」は石碑のことで、銘文を刻んで建立された石。記念碑とか歌碑、句碑などと使われる。碑文谷の地名の由来とされる説の一つに「碑文石のある谷(里)」が起源とするものがある。地元の碑文谷八幡宮には今も「碑文石」が保管されており、石には仏教の仏を示す梵字で碑文(ひぶん)が彫られている。碑文谷の由来にはまだいくつかの説があるようだが、それだけ古い歴史ある地名ということであろう。碑文谷は柿の木坂と鷹番に挟まれた街。この近辺の地名にはやはり興味深い名が多い。
5月5日(火)   <表紙に「花/MIeuへの絵手紙(鉛筆&水彩)」・・・>
表紙に「花/MIeuへの絵手紙(鉛筆&水彩)」を掲載した。本当に久しぶりの「今日の作品」の更新だ。このところ新しい作品ができていないので少々危機感を感じていた。絵手紙一枚描くのには1〜2時間もあれば一作品はできてしまうけれども、それができないのは心の余裕の問題である。毎日の生活は病床に臥している訳ではなく特にサボっていることもない。ベランダの植栽造りや旅行の準備、その他忙しく立ち回っているが、絵を描くゆとりがない。陶芸も同じでじっくりと取り組む気にならない。作品作りが何もなくても毎日は支障なく過ぎて行く。今日はこんな生活にストップをかけて何が何でも「今日の作品」を更新しようと決意して強引に絵手紙を描いた。絵の対象は目の前にある「胡蝶蘭」をあれこれ考えずに、とにかく描いた。この際は出来映えを云々しない。ただ「花」の姿をほんの一瞬描くだけでやはり面白かった。作品作りはこれからも絶やしてはならない・・。

5月6日(水)   <最近は「自動機器」が安く手に入る・・・>
最近は「自動機器」が安く手に入るのでありがたい。少し前には共用の車庫に人を感知する「人感センサー」を設置して自動で照明がつくようにしたところ非常に好評だった。今はベランダ菜園に自動で水を散布する装置を調整中だ。タイマーを使ってどのような時間でも好きな間隔で水やりができる。それも何カ所にも分配できるのは元より、水分センサーの機能まであるので雨の日に水やりを中止することもできる。これらの設備は一昔前でも技術的にはできないことはなかったけれども、一般の素人が使うには高価で手が出なかったもの。それが今はコンパクトで高性能な機器を非常に安価に購入することができる。そういえばスマートフォンも機能から見ると信じられないほど安い。スーパーには誰が食べるのかと思うほど贅沢なケーキや果物が並んでいるが、高価な食品と比較すると食べられない「ハード」の何とお安いことか!
5月7日(木)   <明日からフランス、ベルギーへ海外旅行・・・>
明日からフランス、ベルギーへ海外旅行に出かける。ずいぶん久しぶりのヨーロッパ旅行で前にフランス、オランダに行ったのが1996年か。このホームページに「海外旅行版」としてスケッチを掲載しているが(=ここ)、今回はスケッチができるだろうか。今時、私の周囲には毎年海外旅行をする知人は多い。ヨーロッパだけでも十数回訪れたという人もいる。今回の旅行は久しぶりの割にはグッと地味で「国際グレゴリアン大会参加の旅」と称してフランスとベルギーの地方の教会ばかり巡る。・・ということで、パソコンは持参せずにゆっくりと過ごす予定なので、しばらくコラム休みます。けれども「旅」の様子は主催者側のサイトで逐一紹介されるようです<サイト=ここ>。これも時代ですね〜。
5月19日(火)   <ドゴール空港(パリ)からAir Franceで・・・>
ドゴール空港(パリ)からAir Franceでわずか11時間。先ほど羽田空港に帰着した。i-Phone の時計時刻が何も操作しないのにパリ時間から日本時間にかわる。今や地球上はGPSで一つに管理されている。今回の旅行は通常の観光旅行と違い、テレビもなし、インターネットもつながらないフランス・ロワール地方の修道院に2泊、ベルギーの田舎のワトウという村の宿舎に3泊した。ワトウはフランス国境に近いベルギー西部の小さな村。この村で3年に一度開催される国際グレゴリアン大会が村人の暖かいボランティアで支えられているのがよく分かり、素朴な接待が心地よかった。観光は一部であった代わりに、歴史ある敬虔な歌とともにゆったりした時間を過ごした。今日のところは国際大会の会場となったワトウの教会の写真掲載(下)まで。
 
2015-05-19 ワトウ村の教会
5月20日(水)   <グレゴリオ聖歌とは・・・>
グレゴリオ聖歌とはカトリック教会で1000年以上前から歌い続けられてきた宗教音楽で、特徴としては単旋律、無伴奏であること、歌詞がラテン語であることなど。西洋音楽の源泉と言われるが曲は近代の五線譜でなく四線の楽譜で表される。歌詞が特定の国の言語でないので一面国際性があるとも言える。信者でもない私などがグレゴリオ聖歌を続けて聴いていると、これは仏教のお経と類似した祈りの曲のように思えた。そして心静かに耳を傾けているうちに自分で無意識のうちに面白い体験をした。自分がこの世に生を得て以来の70数年の人生が走馬灯のように頭の中を巡ったのである。残された人生の時間に何をすべきかまで思いは続く・・。このことを同行者に話すと臨終の時でなくてよかったねと言われた。人は臨終の瞬間に自分の一生を振り返るという。人は死を見据えると考え方や行動に変化がでる。グレゴリオ聖歌は生と死を考えさせられる機会となった。<下の写真は教会内で歌うエストニアグループ。i-Padの譜面を持参していたのが印象的。男性の声の重なりがすばらしかった。>
表紙にはAir Franceの機内でだされたワインのラベルを機中で描いたものを掲載。
2015-05-20掲載/ ベルギー・ワトウの教会にて
5月21日(木)   <「共同体(comunity)」の強さ、意味・・・>
「共同体(comunity)」の強さ、意味をグレゴリオ聖歌を聴きながら考えさせられた。生と死の問題とは別に人類の歴史を思った。修道院に宿泊したり、通常は見学できない古い教会や世界遺産の教会を訪れたり、教会の内部で歌を歌うことができるのはキリスト教会という共同体があるからこそできる。人類の遺産である教会を贅沢に使っているようにも見えるが、アルメニア、チェコ、ハンガリーなどからグレゴリアン大会に参加した教会はベルリンの壁が崩壊してソ連の支配から脱却するまでは地下に隠れて活動する瀕死の共同体であったという。宗教という共同体に限らず人は何らかの共同体に属して生活が成り立つ。家族、企業、学会、国などいくつもの共同体に同時に属しているケースも多いが、決して一人では生きられない。共同体の持つ遺産の上で次代のための遺産作りに少しでも関与できた人は幸せであろう。一方で、自分の共同体以外の存在を認めない共同体もあるから戦争や争いごとはなくならない。人類の歴史は無数の共同体の歴史でもある。
下の写真は12世紀に建立された(完成まで180年をかけたといわれる)聖母大聖堂(ベルギー・アントワープ)。主祭壇にはルーベンスが描いた「マリア被昇天」の絵があり「フランダースの犬」の物語でネロ少年が愛犬パトラッシュと共に息絶えた場所として語られている。
 
2015-05-21 掲載/聖母大聖堂&主祭壇
5月22日(金)   <旅行から帰って3日・・・>
旅行から帰って3日経過。時差もとれて平常の生活が戻ってきた。何が”平常”か。朝6時25分からのテレビ体操、そして、テニス、陶芸、就寝前のバランス年齢計測(Wiiによる)など。その間にデスクワーク、パソコンの仕事が加わる。貝原益軒の「老後の一日、千金にあたるべし」(養生訓)との見方をすれば物足りない内容の日常ではある。もっともっと楽しみを入れてもよいか。写真の整理は楽しみの一つではある。今回、フランスのロワール地方をバスで旅行する機会もあったので今日は教会と関係のない風景を掲載しよう:

5月23日(土)   <年期を積めば進化するとは限らない・・・>
年期を積めば進化するとは限らないのが人の悲しいところか。 一方で歳を重ねて亡くなるまで進化を続ける芸術家もいる。私の場合、片岡球子(画家/103歳で没)とか篠田桃紅(書道家、美術家/現在102歳)など女性にその超人的な例をみる。若い頃に描かれたユトリロの絵が素晴らしいと思ったのに歳をとった頃の作品は全く面白くないと感じたことも思い出す(もちろん、個人の勝手な感想)。こんなことを書き始めたのは陶芸教室から持ち帰った最新作品が以前の作品よりもお粗末で家で再度焼成をやり直すはめになったからである。惰性というか気合いが入らずに制作したものは直に分かる。いかに気力を充実させるか、創作活動はこれに尽きると言いながら、”行なうは難し”・・。
今日の写真(下)は旅行中に撮影したサント・シャペル(パリ中心部の教会):
  2015-05-23掲載
5月24日(日)   <今日の作品(表紙)に「ベルギー・ゲント風景」・・・>
今日の作品(表紙)に「ベルギー・ゲント風景(ペン&水彩)」を掲載した。今回のフランス、ベルギーへの旅行の際にはもちろんスケッチブックを持参した。行きの飛行機の中では出されたワインボトルを描くなど意欲満々であったが、旅行中には結局一枚のスケッチを描くこともできなかった。朝早くから夜遅くまで予定がびっしりとつまった強行軍であったし、団体旅行であったのでとてもスケッチの時間をとる余裕はなかったのである。表紙に掲載した絵は今日、写真を見て描いたものであるが、これを現地でスケッチするのは余程時間にゆとりがないと無理だと思った。写真から描いたといっても、それほど忠実に描いたのでなく雰囲気だけにしたが、それでも複雑な建物の表現には手こずった。。こうした町並みや建造物は描く意欲をかきたてられるものばかり。次なる夢はスケッチ旅行。やはり現物を目の前にして感動したままに描いてみたい。
2015-05-24掲載
5月25日(月)   <航空機のトイレ(化粧室/ラバトリー)・・・>
航空機のトイレ(化粧室/ラバトリー)は日本のメーカーがかなりのシェアを占めるという。 ボーイングの最新機にはほとんど日本のメーカーが独占供給するとか。極めて限られた狭い空間の中に軽量にして高品質の部品を組み込むのはいかにも日本の得意分野であろう。海外旅行をして改めて日本では当然のごとく使用しているウオッシュレットトイレの有難さを感じる。今回の旅行では一度もウオッシュレット式のトイレにはお目にかからなかった。ウオッシュレット/温水洗浄便座はまだまだ海外に普及させて人に快適を提供できる材料と思われる。一方で最近「おもてなし」が日本の専売特許のように言われることがあるが、もちろん海外でも同じような”おもてなし”がある。今回の旅行で嬉しかったのは各所での暖かい”おもてなし”であった。損得勘定やビジネスライクの対極にある奉仕の精神は世界中で堅持されていることを忘れないようにしよう。

5月26日(火)   <失敗を許容する世の中・・・>
失敗を許容する世の中は好ましい。テレビ朝日で「しくじり先生」と称して大きな失敗を犯した有名人を講師にして自分の失敗から得た教訓を語らせる番組を見ていい世の中だと思った。もちろんバラエテイー番組で制作者の面白くするための意図が見え見えであるが、それでも一面の真実はある。たまたま見たのはホリエモンこと堀江貴文(起業家/世の中ナメすぎて逮捕・拘留)、前園真聖(元サッカースター/調子に乗り過ぎ大酒飲んでトラブル)、新垣隆(作曲家/頼まれると断りきれず18年間ゴーストライター)などであったが、何をどう反省するかはそれなりに説得力があった。本当に大失敗をして再起不能となった人物は出て来ないので見ている方には安心感がある。それにしても有名人でなくても誰でもが「しくじり先生」となるネタがあるのでないか。失敗がないという人がいれば余程自分のことが分かっていない。失敗があるから他人を許せる。失敗は人間の幅を大きくする。


5月27日(水)   <荘子(そうし)が書いた「荘子(そうじ)」・・・>
荘子(そうし)が書いた「荘子(そうじ)」をもう少し本格的に読んでみたくなった。今朝のNHK教育テレビ(再放送)で講師の玄侑宗久さんが”そうじ、そうじ”と濁音で言われるので気になって調べてみると、日本では人物名である荘子は”そうし”と読み、荘子の書いた書物は”そうじ”と濁って読むのが習慣であることを知った。2300年前の中国の思想家の書いた本を日本でどう読むかはいろいろ経緯があったものと思うが残念ながら「そうじ」が常識とは知らなかった。歴史上の思想は孔子も釈迦もキリストも弟子たちがその教えを語り継ぎ、後世に書物化されたものであるが、「荘子(そうじ)」は荘子自身が書いた部分もあり師匠である”荘子(そうし)”と弟子の合作である稀な書であると言う。「荘子」の読み方が分かったところで今一度中身に目を通すと至る所でに触発される言葉が並んでいる。全く古さを感じさせないのは何故。「無用の用」とか「遊」など身近なテーマも面白そうだ・・。


5月28日(木)   <テニスの帰りに軽く負傷・・・>
テニスの帰りに軽く負傷した。自転車で片道45分ほどの道中で自転車を転倒させて腕を擦りむいた程度であるが、自動車や通行人には一切迷惑をかけない一人転倒であった。自転車に乗る時、事故があるならこんなときと毎回想定している通りの事故。つまり車道を走りながら途中で歩道に移る時に段差の部分で車輪がスリップしたのである。少々の段差があっても段に直角に車輪を向ければ滑ることはないが進行方向を大きく変えずに歩道に上がろうとするとタイヤがとられる。自転車の一般ルールでは自転車は車道を走るのであるが東京の都心部では大部分の歩道は自転車も走行が許されている(標識がある)。私は自動車を運転する立場から車道を我が物顔に走る自転車は好きでないので、できるだけ歩道を走る。けれども歩道で歩行者が多い時には車道も走るので、車道ー歩道の移動がでてしまう。”想定通りの事故”と開き直っているとまた事故を引き起こしかねない。それでは”再発防止”はどうすべきか。そこが問題だ・・。
5月29日(金)   <「生きている」とは実に不可思議・・・>
「生きている」とは実に不可思議なことと改めて思う。DNAによって人の起源を追求した研究の中で日本人が大陸の人(中国、韓国など)と明らかに相違するのは縄文人のDNAが受け継がれているところと紹介されていた。考えてみると縄文時代といっても1万3000年前から1万年以上もの長い間続いた。キリスト以降、つまり西暦でわずか2000年余しか経っていないとみると10000年の時間の長さが実感できる。私たちは誰もが親の親がいる、そのまた親の親、またまた親の親・・。親がいなければ今ある生は存在しない。そして、どこかで縄文の血と結びつく。それは祖先の家柄がよいとか名家だったなどと全く無関係な遠大なる時空の話となる。今ここに「生」あることが本当に奇跡的に見える。いま1万年も前に作られた縄文土器から強烈なパワーを受け取ることができるのは何とすばらしいことか!
5月30日(土)   <今、日本武道館で剣道世界選手権大会が開催・・・>
今、日本武道館で剣道世界選手権大会が開催されている。先日、ベルギーを旅行した際、希望者だけが古い趣のある街、ブルージュとゲントを訪れた。その時、ベルギーの若い女の子が案内してくれたのであるが、外観は外人(ベルギー人)であるのに日本語がペラペラ。父親はベルギー人で母親が日本人であった。彼女が日本で開催される剣道の世界選手権にベルギー代表で参加する予定だと聞いてびっくり。何でも父親が剣道をやる人でそれが縁で母親とも知り合い、彼女は小さい頃から剣道を始めたという。今日は武道館で女子個人戦、女子団体戦が行なわれているはずだから正に今彼女は試合の真っ最中か。応援に行きたかったがかなわず、陰ながら彼女の健闘を祈る。それにしてもインターネット情報では大会の詳細の結果が分からないのが残念。
5月31日(日)   <昨晩、陶芸教室の移転3周年記念の集まり・・・>
昨晩、陶芸教室の移転3周年記念の集まりがあった。陶芸仲間と飲食をしながら話をしただけであるが色々と刺激を受けた。このところ陶芸のアイデイアが枯渇して停滞気味であったが何か新しい光を見たような気がした。その中に半分冗談で勧められたのが”尺八を陶芸で作ったらどうか”というのがあった。今日になって少し下調べをしてみると、これは面白いテーマになるかもしれない。もちろん真面目に”尺八”を作るのでなく尺八風の新楽器を目指す。どのように進展させるかは、これから考えるとして自分一人では想像もしなかったところで仲間との雑談の中から貴重なヒントを得た。「瓢箪から駒」が実際にあるかもしれない・・。
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