これまでの「今日のコラム」(2016年 3月分)


3月1日(火)   <家のベランダから遠くの景色を見て・・・>
家のベランダから遠くの景色を見ていると、これまで目にしたことのない巨大なアーチ形の建造物が突如として出現した。遠方に富士山を見るような大きさと形状が気になるのでバスに乗ってアーチの近辺まで行ってみた(下の写真)。実物を目の前にしても何ものか判然としなかったが調べるとすぐに分かった。正体は改築中の「駒沢オリンピック公園総合運動場の屋内球技場」のいわば御柱。直径が数メートルの巨大な鋼管で作られたアーチを更にもう一つのアーチと合体させて球技場の屋根を吊るためのサポート用の構造体とするようだ。従って完成した後も、この巨大アーチはそのままの外観で残る(完成予想の図&説明=ここ )。完成は来年の春という。これから一年間この建築物を注視しよう。
 
2016-03-01


3月2日(水)   <村上隆の「五百羅漢図展」・・・>
村上隆の「五百羅漢図展」を見てきた(@森美術館/六本木ヒルズ森タワー53階、3月6日まで、)。全長100mに及ぶ「五百羅漢図」はこれまで存在しなかった超巨大絵画である(概要はこのサイト=ここ=)。アニメ風の独特な描き方が世界の絵画市場で高い評価を得ている村上隆は日本の五百羅漢に新たなテーマを求めて巨大絵画に挑戦したのだろう。何百人もの共同作業ではじめて完成できた成果は迫力がありユニークである。世界の誰もマネできない。けれども、素人としての感想であるが、「筆」の勢いのある絵画とは異なり大型印刷のような平坦さを感じてしまった。日本の水墨画やモネ、ゴッホなどの筆の一つ一つの力に感動を受ける絵画とは明らかに違う。大プロジェクトの末にできた奈良の大仏よりも円空の削った小さな仏により親しみを覚えるのと同じ感覚。”芸術”は独りの小さな力でも十分にパワーがでる・・。
今日は息子の月命日で展覧会を見た帰りには墓参りもした(写真はなし)。
 
2016−03−02@森美術館にて
 
3月4日(金)   <車で一泊旅行・・・>
車で一泊旅行をして先ほど帰宅した。妻の姉夫妻とは何度も一緒にドライブ旅行をしているが、どういう訳か運転は妻に定着してしまった。今回は箱根・仙石原に宿泊。昨日、今日ともに穏やかな晴天に恵まれて富士山を眺めながら存分に陽光を浴びた。観光目的でない静養旅行を心底楽しめるようになったのは比較的最近である・・。
 
2016-03-03 箱根・芦ノ湖

2016-03-04 箱根・彫刻の森
3月5日(土)   <Kindle(電子書籍)で読んでいる「火星の人」・・・>
Kindle(電子書籍)で読んでいる「火星の人」がようやく大詰めを迎えた。この本は今、上映中の映画「オデッセイ」の原作で概要は2月23日のコラムでも触れた(=ここ)。やむを得ぬ事情で火星に一人置き去りにされた宇宙飛行士が出来る範囲のあらゆる可能性を考え工夫しながら生き延びる物語であるので、このところ日常生活をしながらふと”火星ならば”と考えてしまうことがある。地球上のニュースや周囲の出来事が何でも贅沢三昧の思い上がりに見えたりする。それはそうでしょう、この地球上では苦労せずに周囲にちょうど良い酸素量を含んだ空気がある、水がある、太陽の熱もある・・。食料も火星環境と比べると極めて容易に手に入る。食料や酸素が何日生存するとなくなるという計算をしなくても生きていける。地球に住み続けていると奇跡的に恵まれた環境すら当然と勘違いして不平不満が先に立つ。時には奇跡の星・地球の有難さにも思いを馳せたるためにも「火星の人」はお勧め。
3月6日(日)   <久しぶりに山種美術館・・・>
久しぶりに山種美術館に行った(=ここ)。正月から開催されている「伊藤若冲 生誕300年記念/ゆかいな若冲・めでたい大観」」という特別展で今日が最終日。待った無しで駆けつけたが同じような人も多いようで大変混雑していた。伊藤若冲の表情豊かな鶏の絵や歌川国芳の戯画など見れば見るほど新しい発見がある。今朝のNHKテレビ日曜美術館では曾我蕭白が取り上げられていたが、無頼の画家とか狂気の絵師ともよばれる蕭白も同類であるが、若冲、国芳に共通する正統派を破壊する勢いのある自由闊達な絵が私は好きだ。その点、横山大観さんなどは並べて展示されると好みかも知れないが少々可哀想になる。そのようなことを書くと続け難いが、今日の表紙に「mieuへの絵手紙/フラワーベース」(水彩)を掲載した。”破壊する勢い”などなくても、自分では孫娘への絵手紙としては、こんなところ・・。

3月7日(月)   <同じものを見たり、聴いたり、また読んだりしても・・・>
同じものを見たり、聴いたり、また読んだりしても人によって感じ方が異なるので世の中面倒になる。音楽を聴く、絵画を見る、本を読む、話を聴く、振る舞いを見るなど人間の行動全てについて感性が異なるのでよし悪しの判断が違ってくる。ある人が素晴らしいと感動するのに対して別の人は粗探しから始まり相手を認めない。それは理屈ではなく、習性とか価値観の問題であろう。本来は子供は何に対しても感動する素養が大きいはず。それが年寄りは自分のわずかな経験をベースにして感動をなくしてしまう。見たり聴いたりする時に経歴とか他の人の評判、社会的評価が先に脳にインプットされるので白紙の受け皿がないこともある。そこで、・・年齢相応の知識とか教養を一度思い切り破棄して、初めての体験として見たり、聴いたりしてみる。そうするとこの世の中には何と凄いものが多いかと感動する。自然の美しさ然り、人工物は正に人類の豊富な遺産に満ち満ちている・・。
3月8日(火)   <今日一日、一生懸命にやった割には成果がなく・・・>
今日一日、一生懸命にやった割には成果がなく中途半端で疲労感だけが残る。決められた手順はなく工夫しながら電気工事、大工工事と取り組んだ結果だ。例えば、天井のコンクリートに穴をあけて鉛のブッシュを差し込みネジ止めする工事。書き出せばそれだけだが、先ずコンクリート用のドリルを近所の工具店で購入してきてから作業開始。このドリル、はじめは快調と思いきや、直に切れが悪くなり途中で使い物にならなくなった。以前から持っていた電気コードの束を利用しようと少々焦って電源を差し込むと”ボン”とショートさせてしまったり・・(何年振りのショートか!)。余りにうまく行かないので「火星の人」を思い出してしまった。何事も失敗は付きものだが火星の条件と比べるとやり直しは簡単。夕食に鰻でも食べて元気を出そう・・。
3月9日(水)   <バスに乗るとKindle(アマゾンの電子図書)・・・>
バスに乗るとKindle(アマゾンの電子図書)を読む。渋谷への往復バスなど読書が出来るので時間の長さを感じない。「火星の人」を読み終えて、今は岡倉天心の「茶の本」を読んでいる。これがまた面白い。「茶道の要義は”不完全なもの”を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるあるから」なんていう文章がいきなりでてきて度肝を抜かれる(茶の本の解説は松岡正剛の先夜千冊=ここ=が読ませる)。岡倉天心(1863~1913)の人生も知れば知るほど興味深い。江戸から明治になった時にはまだ5歳であった天心は7歳になって英語塾に通ったというから恐ろしい。14歳で東京開成学校(後の東京大学)に入学。18歳で結婚。25歳の時に欧米視察。28歳で開校されたばかりの東京美術学校(芸大の全身)の校長。もちろん順風満帆ばかりでなく東京美術学校を排斥されたりもしたが、50歳で死去するまで日本独自の文化に視点を置きながら、日本にとどまらず欧米で活躍の場を広げた。「The Book of Tea」は1906年(明治39年)に欧米の読者向けに英語で書かれたもの。
3月10日(木)   <「者」がつく職業人は、間違いを認めない・・・>
「者」がつく職業人は、間違いを認めない、謝らないと聞いたことがある。例えば、医者、学者、記者、易者など。特別にこのような職業人でなくても”自分の間違いでした”と認めるには勇気がいる。いや、勇気だけでなく、本人が気がつかなくても間違いを犯しているとか、人間は過ちを犯すものと認識した上で謙虚さも必要だ。八木重吉(1898~1927)に「草にすわる」という詩がある。読む度に自分も間違いだらけかと思ってしまう不思議な詩。「わたしのまちがいだった  わたしの まちがいだった  こうして草にすわれば それがわかる」。普段は「草に座る」こともないので「わたしのまちがい」に気がつかないのかと思ったりもする・・。
3月11日(金)   <東日本大震災から5年目・・・>
東日本大震災から5年目となった今日、テレビや新聞は各社とも震災のレビュー特集一色である。新聞各社のコラムも専ら大震災や津波の記事を掲げる中で面白いことに気がついた。朝日新聞の「天声人語」だけが「大震災」、「津波」の言葉が一切でて来ない。ただ「原発被災地」、「水素爆発」、「放射性物質」など原発がらみの文字のみが並ぶ。今日の天声人語を後世の人が読むと、この日、チェルノブイリと同じような原発の大事故が起きたと思い、大地震があったとは想像もできないだろう。毎日新聞「余録」、日経新聞「春秋」、産經新聞「産経抄」などのコラムとは違って、朝日「天声人語」では大震災、大津波の被災者への視線がなく、原発だけに焦点を絞るのが妙に朝日的にみえた。・・今日の午後2時46 分、5年前に大地震が起きた時刻には静嘉堂文庫美術館(東京・世田谷区)で曜変天目茶碗をみていた(茶の湯の美開催中=ここ)。平穏であることが何と有難いことか・・。
 
2016-03-11 静嘉堂文庫 & 庭
3月12日(土)   <雪が降りそうな寒さの中、谷中のお寺・・・>
雪が降りそうな寒さの中、谷中のお寺に義兄の墓参り。日暮里駅近くのコンビニでホットコーヒーを買い、10分ほどの時間、コーヒーカップで暖をとりながら持ち歩き、墓の前でコーヒーを飲んだ。帰路は千駄木の地下鉄駅への途中にある「岡倉天心記念公園」に寄った。今、岡倉天心の「茶の本」を読んでいるところなので是非行ってみたかった場所だ。この公園は、天心の邸宅兼、日本美術院(横山大観らと天心が創設)の跡地を台東区が公園としたものという。700平方mほどの小さな公園の中に平櫛田中が制作した天心像を収めた「六角堂」があるが、六角堂の背景に、木の葉の茂りもない今時には隣の民家の洗濯物がはためいており、何か天心さまには申し訳ないような風景だった(下の写真)。それにしても、50歳で生涯を終えた岡倉天心の著作を死後100年以上を経た今もなお感銘を受けながら読んでいる・・。
 
2016-03-12 岡倉天心記念公園六角堂  右は初音六地蔵
3月13日(日)   <「グレゴリオ聖歌」をたっぷりと・・・>
「グレゴリオ聖歌」をたっぷりと聴いた。「グレゴリオ聖歌と講話による<聖週間の黙想>」というお御堂(聖堂)での催しに縁あって出てみたのである。キリストが十字架に架けられて処刑され、死後3日目に復活したことを記念する祝祭日であるイースター(復活祭/日曜日に決まっている=2016年は3月27日))の前日までの一週間が「聖週間」。この週の木曜日は「聖木曜日」、金曜日は「聖金曜日」(この日が十字架に架けられた受難日)と呼ばれ、キリストの受難週として記憶されるようだ。信者でもない私にとってはラテン語で歌われるグレゴリアン聖歌の意味は分からないけれども、透明感のある静かな調べは理屈抜きで心が休まる。それから、キリストが神の力を行使することもなく成り行き任せで処刑されたところが自分なりに初めて重要なポイントに思えてきた。命を落としたら全てが終わりではなく、そこから次の新たなスタートが始まると考えると死に対する救いが見えてくる・・。
2016-03-13 お御堂
3月14日(月)   <表紙に陶芸作品「備前で焼成の花器」・・・>
表紙に陶芸作品「備前で焼成の花器」を掲載した。陶芸作品の掲載は今年初めてと知って自分で驚いている。今日は朝から雨。月曜日テニスは元より諦めて、雪が降りそうな寒さの中を厚手のコートを着て陶芸教室にでかけた。素焼きが完了している作品があるので釉薬をかけに行ったのであるが、思いもしなかった「備前花器」が出来上がっていたのである。下北沢の教室でこの花器を制作したのはいつのことであったか、昨年末か、もっと前か、余りに昔であるので忘れてしまった。粘土で完成させた後、教室の窯で素焼きを行ない、その後、備前岡山の提携している窯処まで送って本焼成をしてもらったものが、今になって完成した次第。焼成前には釉薬をかけることなく、窯の中で自然釉がかかる成り行きに任せた。場所によって灰をかぶったり色が変わったり変化が出るところが本物の窯で何日間も木材を燃やして焼成する面白さだ。今回の作品も想像できなかった仕上がり加減で満足。もう1ショット、別のアングルで撮影した写真を下に掲載してみる。
 
2016-03-14
3月15日(火)   <東京都の天然記念物に指定されている辛夷・・・>
東京都の天然記念物に指定されている辛夷(こぶし)が五島美術館(世田谷区上野毛)の庭にある。この辛夷は樹齢250年といわれる大木であり、概ね3年に一度満開の花を咲かせるそうだ。今日は時期が少し早いのか、満開となる年でないのか、それほど圧倒される花数ではなかったが、大木の雰囲気は味わうことが出来た。同じ園内にはハクモクレン(白木蓮)の花も咲いていた。今の時期まさに花盛りの「こぶし」と「ハクモクレン」をどう見分けるかはしばしば話題になるところ。辛夷の特徴である花の元に葉っぱが一枚残る写真も合わせて今日の写真を掲載する。そうそう、五島美術館で開催中の「中国の陶芸展」(3/27まで)も内容豊富で面白かったことを言わなければならない。
 
2016-03-15 五島美術館にて ・ 今日の辛夷
 
辛夷の花の下に葉               右はハクモクレン(白木蓮)
3月16日(水)   <美食家といわれる人・・・>
美食家といわれる人には興味がない 。むしろ敬遠する。たまたまI-PhoneのKindle(アマゾンの電子書籍)に入っていた北大路魯山人の料理の本を読んでいて、もう結構と食傷気味であった。「だしの取り方」から食器、鍋料理、日本料理、京料理などなどうんちく(蘊蓄)を聴かされても一向に有難味がない。食べられるだけでも感謝しろよと言いたくなる。他人が作った料理を”こんなものが食えるか”と投げ捨てる世界にいるのが魯山人。彼は料理家、美食家のほか陶芸家、書道家としても名を残している。陶芸の食器も確かに味のあるものを制作はしている(轆轤の名人が造り上げたものに本人は最後の仕上げをチョコットやった話もある)が作品で人間(人物)を評価できないと魯山人を見ると思う。元より生前から傲慢、不遜、虚栄の評判であったようだが、今はどうでもいい話。ただし、料理の本を読みながら、どんな女性が魯山人の奥さんを勤められるのだろうかと疑問に思って調べると、「6度の結婚は全て破綻」とあった。むべなるかな・・。
3月17日(木)   <建築物を見るのが好き・・・>
建築物を見るのが好きだ。大小、材料、種類にこだわらず、古民家でもお寺でも教会でも近代的な大建築でも何でもよい。ただ建設した当事者の気合いが入ったものを見たい。3月1日のコラム(=ここ)で駒沢オリンピック公園総合運動場の屋内球技場の改築を知ったことを書いたが、家から歩いて行くことの出来る距離にあるので、機会があれば建設工事の進捗を眺めている。このところ超巨大なクレーンを使って高さ30m近い鋼管製の巨大アーチがほぼ出来上がってきた。このアーチからワイヤをおろして天井を吊り、屋内に柱のない広場を作る構想のようだ。このような挑戦的な建築は完成品を見るだけでなく、建設中のプロセスが面白い。来年の春の完成まで時々の建設風景を紹介してみたい。
 
2016-03-17
3月18日(金)   <人間(じんかん)至るところ青山あり・・・>
「人間(じんかん)至るところ青山あり」という。 ここでの「青山(せいざん)」は墓地のこと。人生の至る所に青々としたいいところがある意味ではない。出典は江戸末期の僧侶、釈月性(しゃくげっしょう)の漢詩。男子が志を立てて故郷を後にしたからには学問が成就しないうちには死んでも帰郷しない。骨を埋めるのは故郷の墓だけでなく、どこにでも墓地はあると強い決意を歌った詩の結びの言葉だ。・・何となく自分の入る墓のことを意識する年齢になった。息子や親の入っている墓に頻繁にお参りをするものの、墓の名義や所有権などを考えると、さて自分たちはどうするか思案してしまう。こんな時に、「至るところ青山あり」は心に響く。つまり、青山<墓地>のことなど考えるな、やるべきことは他にあるとも解釈できそうだ。
3月19日(土)   <桜の開花宣言は明日か明後日・・・>
桜の開花宣言は明日か明後日になりそうだ。「桜」の字は今は簡単になったが、旧字体では「櫻」と書いた。「木の横のニカイの下に女あり」は、この漢字を覚える文言。もちろん「ニカイ」は貝の字が2つである。「十八の女二階の下に立つ」も同じだが、この場合、木偏を「十八」としたところがうまい。最近はこのような文字遊びを聞かなくなったのは漢字が簡略化されたためだろうか。もう一つ、「恋」の昔の字は「戀」(旧字に変換できた!)。「戀という字を分析すれば、いとしいとしと言う心」(いと=糸)と覚える。このような記憶法で遊べば旧漢字も親しくなる。それにしても「櫻」は貝殻の装飾品を身につけた女性とどう結びつくのだろう。美しいものは花も女性もかなぁ。
3月20日(日)   <早朝にテレビの生中継でテニス・・・>
早朝にテレビの生中継でテニスを見た。BNPパリバ・オープンテニス男子(アメリカ/インディアンウェルズ)の準決勝は、先日、錦織圭を破ったナダルと第一シードのジョコビッチとの対戦。第1セットはタイブレークの大熱戦で超絶技と緊迫した真剣勝負を堪能した。その生中継テレビで余計であったのが”解説者”。世界トップ選手のゲーム運びに対してアレコレ評論するのが邪魔であった。一体何を解説しようとするのか分からなかった。昨日、プロ野球オープン戦の解説でも同じように解説者の話し方が不遜で不愉快だった。スポーツの解説者でもマラソンの高橋尚子のように自分の実績が抜群であったこととは別に猛烈に勉強を重ねてマラソンをより面白くしてくれる人もいるのに、野球やテニスの解説者は、全般に実績もないのに威張っているし勉強不足だ。解説者になろうとする人は高橋尚子さんに学ばなければならない・・。
3月21日(月)   <津軽三味線と琴という「和の世界」・・・>
津軽三味線と琴という「和の世界」を満喫した。千葉県の”リソル生命の森”(中央部長柄町)で開催されたコンサートで、津軽三味線が佐藤通弘、通芳の父子、琴が母親である海寶幸子。正に”親子で奏でる和の世界”の演奏会であった。私と同年・同月生まれの従姉妹が企画とおしゃべりをした記念コンサートに出かけたのであるが、”和の世界”のコラボは想像以上に現代的なリズムと即興性があり面白かった。感動すると同時に、日本人でありながら、これまで三味線、琴など日本の楽器の演奏会に、いかに疎遠であったか、本物を聴くチャンスがなかったかを今更ながら思い知らされた。恐らくはマスコミの責任もあるだろうが、余りに日本国内でも一流演奏に接する機会が少ない。伝統芸能は旧態依然のままでなく現代にも適合するべく日々進化している側面も知った。今日演奏された親子の皆さんは既に海外での公演実績もあるという。三味線や琴でも海外での活躍が注目されて日本に逆輸入されるケースが起きるかも知れない・・。
 
2016−03−21 リソル生命の森にて
3月22日(火)   <北側のベランダに植えた「ビオラ」・・・>
北側のベランダに植えた「ビオラ」がいま花盛りだ。昨年、花壇を手作りして安易に手に入るビオラを植えたものの冬場は陽が当たらぬこともあり諦め気分で自動水やりだけを続けていた。それが健気にも冬場を乗り切り、今は陽光を浴びながらまたまた見事な花を咲かせている。ビオラはスミレ科スミレ属で同じ品種のパンジーよりも少し小さい花を咲かせる。ビオラが文字通りバイオレットの種であることも知らずに適当に園芸種を選んだ初心者がろくに面倒もみないのに長期に渡って花を咲かせ続けてくれているビオラをみて今になって本当に愛おしくなる。その上、ビオラの生命力を見ていると人間も環境や条件に文句ばかりいうのでなく、強くならなければと思ったり・・。ビオラさまに感謝。
 
2016−03−22
3月23日(水)   <横浜探索・・・>
横浜探索をはじめた。横浜地区には東急東横線(&みなとみらい線)に乗れば30分ほどで行ってしまうのに、2年前に今住んでいるところに転居してくるまでは都心の方に親しみがあり多摩川を越えた神奈川県の横浜は遠い存在で、どうしても馴染みが少なかった。ところが横浜は知れば知るほど奥が深い。今日も横浜を散策しながら改めて横浜の多様性を思った。横浜美術館には前にも何度か訪れたことがあるが、美術館はほんの一角で、みなとみらい、馬車道、中華街などの狭い範囲に非常に多くの見所がある。東京でいえば、台場と銀座、門前仲町、六本木、それと新宿副都心が歩いて行ける範囲に凝縮してある感じか。もちろん、横浜ランドマークタワーは関東では最も高い超高層ビルであるなど東京をしのぐものも多い。「街」には見方を変えると毎回新たな発見がある。先ずは足下を見直そう・・。
 
2016−03−23 横浜にて
 
3月25日(金)   <「シクラメン」を描いた絵手紙・・・>
「シクラメン」を描いた絵手紙を表紙に掲載した。昨年購入した鉢植えのシクラメンが今でも元気に花を咲かしているのを見て毎日水やりの度に感激している。改めてシクラメンを観察すると、この花も随分と個性のある面白い花だと思いつつ、Mieu(NYに住む孫娘)への絵手紙を描いた。シクラメンというと布施明が歌った「シクラメンのかほり」の歌詞とメロディーが思い浮かぶ。調べてみると、この曲が大ヒットしたのは1975年。作詞・作曲は小椋佳で、シクラメンは今ほどポピュラーでなかったのが、この歌で一挙に知られるようになった。YouTubeで「シクラメンのかほり」を布施明と小椋佳が一緒に歌っている珍しいサイトがあった(=ここ)。この歌は今聴いてもいい歌だ。ところで、シクラメン は死(シ)と苦(ク)の文字が入っているので病気見舞いには敬遠する向きもあるようだが、こんな馬鹿げた言いがかりは無視したいもの。最近の品種は美しい上に丈夫で長持ち、その生命力には驚嘆する。

3月26日(土)   <桜の開花宣言はでたものの・・・>
桜の開花宣言はでたものの今日も寒さを感じる一日。桜の見頃は来週になりそうだ。「花より団子」とか「酒なくて、何のおのれが桜かな」といって、桜を見るよりも集団で飲食する楽しみが強調されるが、私などは最近は本当に花だけ見られれば十分になった。まだ満開の桜を目にする前なので、こんなことを書き過ぎるのもおかしいが、美しい花をみて癒される上に、この時期に間違いなく咲き、そして直ぐに散っていく桜を見て、地球上の生命体の不思議さから、自然や宇宙の神秘、人間の命のはかなさまでを考えさせられる。今日、家の近所を歩いているとほんの少しだけ咲き始めた桜の木が至るところで目についた。来週は団子も酒もなしに是非ウオーキング花見をしたい。
3月27日(日)   <今日の日曜日、早朝に散歩・・・>
今日の日曜日、早朝に散歩にでかけた。以前、犬を飼っている時には毎朝犬を連れて朝の散歩をしたが最近はテレビ体操をするので歩いていなかった。久しぶりの早朝散歩ではスタート時に左脚に違和感を覚えたが、呼吸と身体の重心に気をつけながら5~10分も歩くと普通に速歩もできるようになった。目的のない脚の向くままの歩きであるので思わぬ発見もある。こんな場所に辛夷(こぶし)の花が満開だ、緑道の桜並木はまだ花は少ない、早朝からテニスをやっている人もいる、駒沢公園のジョギングコースでは朝7時にかなりの人が走っている・・。こんな中で、前にコラムでも書いた(3/1,3/17コラム=ここ)建設中の屋内球技場の新しいアングルを見つけたので帰宅後出直して写真を撮った(下に掲載)。早朝散歩でもカメラかiPhoneを持参しなければならないと反省。
  
2016-03-27 @駒沢公園にて
3月28日(月)   <評論とは空しい・・・>
評論とは空しい。もちろん粗探しをするのでなく他人の素晴らしいところを発掘したり感動して紹介するのは意味がないとはいえない。それでも所詮他人が対象で自分が何を創りだしたということではない。コラムを毎日書きながら他人の評論をすることを極力避けようと思っているが、では自分の紹介すべき内容をと考えると困ってしまう。「今日の作品」で毎日の成果を掲載できればいいがそうはいかない。そんなことで、今日は何が何でも表紙に「備前一輪挿し」(陶芸作品)を持ってきた。3月14日に掲載した”備前にて焼成した花器”と同じく東京で制作し素焼き後備前(岡山)に送って薪の窯で本焼成した一輪挿し。小さな変哲もない一輪挿しであるが、備前の窯で焼成しただけあって自然の釉が独特の風味を作ってくれた。ちなみに写真では二個にみえるが表裏から撮影した写真を並べただけで一個の同じもの。

3月29日(火)   <暖かな春の陽射し・・・>
暖かな春の陽射しの下、今日はテニスに行った。いつもは月曜日をテニスの日としているが、。昨日の月曜日は雨でテニスが出来なかった。随分久しぶりと思いレビューすると、先週(3/21)は休日(ウィークデイ会員で土日休日はできない)、3/14,3/7,2/29が全て雨で、月曜日は何と4週間テニスができなかったことが分かった。その反動でもないが今日のテニスの何と気持ちのよかったことか。思う存分身体を動かし、勝負事の緊張もして、帰りの自転車を漕ぎながら晴れ晴れとしていた。このところ何か気分が沈滞し、マイナスのことばかり頭に浮かんだのは運動不足のためか。ゴタゴタと理屈を言っているよりも身体を反射的に動かして動物本能を発揮する方が脳は遥かに元気になると実感した。「理屈を捨てよ  身体を動かそう・・」。 
3月30日(水)   <「今日の写真」を掲載すると・・・>
「今日の写真」を掲載するとその日の生活が分かってしまう。日記でこまごまと様子を書く以上に現実が見えることもある。記録された映像は目で見た本人が文字で説明するより説得力があるようだ。下に掲載する「今日の写真」は一つは筍(たけのこ)の皮と満開の桜。ただし、この桜は、”陽光”という名の天城桜と寒緋桜の交配種で、”陽光”のみが満開で、多くのソメイヨシノはまだ5分咲きほどだった(@東京・中目黒近辺にて)。もう一つは、渋谷のスクランブル交差点を上から見た写真。こうして見るといずれも近場の珍しくもない写真ではある。それにしても、何とも平和な映像であることか。平穏無事はいくら望んでも手に入るとは限らない。やはり、このような写真を掲載できることに感謝感謝!
  
2016-03-30
3月31日(木)   <呑川(のみがわ)緑道を花見・・・>
呑川(のみがわ)緑道を花見をしながら歩いた。呑川は東京都の二級河川で世田谷区の桜新町近辺を水源として目黒区から大田区を縦断し最後は東京湾へ注ぐ川。上流域は全て暗渠化されて川に沿って桜並木が整備されている。私が歩いたのは目黒区八雲辺りの緑道から都立大学駅脇を通り下流へ向かった。花を見ながら、ただ道に従って歩いて行くと東京工業大学の案内がある。大学の桜が余りに華やかなのでその先の緑道を進むのを止めて大学構内の桜見物とした。実は知らなかったのであるが、花見をしている人の話では東工大の桜は都内でも有数の桜の名所であるという。今日は東京でも桜満開と報じられた。この満開の時期に、全く予期せずに素晴らしい花見スポットに到達したのは幸運としか言えない。
 
2016-03-31 呑川緑道にて
 
東京工業大学構内にて<時間の経過とともに青空がなくなった>


これまでの「今日のコラム」(総括版)に戻る

 Menu + Picture + Ceramics+ Gallery + Corgi + Special + Links