これまでの「今日のコラム」(2017-10月分)


10月1日(日)  <今日から10月・神無月・・・>
今日から10月・神無月。いまさら光陰矢の如し、月日の経つのは早いですねなどとは言うまい。神無月を詠んだ俳句にこんな句があった:「名物の蚊の長いきや神無月」(正岡子規)。これは実感として分かるが、「たらちねとして日々潔し神無月」(中村草田男)となると、”たらちね”は母親なのだろうか、父親なのだろうかなどと迷う。種田山頭火が昭和5年10月1日に詠んだ句があった:「こころつかれて山が海がうつくしすぎる」。山頭火の句は異質だからこそ心に深く響く・・。神無月には八百万の神様が出雲へ出かけてしまい神様がいなくなるけれども、一方、神々が集う出雲では「神在月」。こんな句があった:「出雲路や神有月の温泉のあふれ」( 水原秋櫻子)。この時節、神頼りでなく自分をしっかりコントロールしよう・・。


10月2日(月)  <国立新美術館で開催されている公募展・・・>
国立新美術館で開催されている公募展の招待券をいただいたので見に行った。いつもながら、絵画・彫刻・スペースデザインのジャンルに分かれて!F,2F,3Fに膨大な作品群が展示されている。一つ一つを細かく鑑賞したとは言えないが、鑑賞以前に”創作”とは何かを考えさせられてしまう。このような展覧会に出展できた人は選ばれたエリート的な人たちで、それぞれに描いたり、制作することにより伝えたいことがあり、表現したい衝動もあるに違いないが、それを第三者に伝達することの難しさを感じる。膨大なエネルギーを使って創作した結果が他人にどう伝わるか、他人にどんな感動を与えるか、元気を与えるか・・。確かに一つの芸術作品が人の一生の宝物になるほどのインパクトを与えることがある。見たことだけで幸せを感じることもある。誰もがそれを目指して創作するとしても他人の受け取り方は異なる。・・出展者への不満を言っているのでなく、何らかの創作を志す我が身を省みての感想でもある。一方で創作は入賞とか他人を意識するのでなく、また儲けを考えることもなく、自分で心底面白く楽しければそれだけで十分と思いたい・・。
2017-10-02 国立新美術館前にて(蜷川実花の作品)
10月3日(火)  <新しい陶芸教室で・・・>
新しい陶芸教室で、いま表紙に掲載している饕餮文(とうてつもん)の削りをフルに3時間やった。写真のようにほぼ形状ができ上がっている粘土に、濡れぞうきんを被せ、その上で更にビニールで覆い、乾燥しないように保管しておいたものを取り出して、仕上げの加工。やる前には3時間も削りをすれば完成するだろうと思っていたが、まだまだ未完成のまま今日が終わった。その間、雑念なく集中して作業を行ったにもかかわらずである。まさに気がつくと3時間経過してタイムアップ。最近ではこれほど時間が速く感じらえたことはない。時間が足りない、時間がまだまだ欲しいという悩みは悪くない・・。
10月4日(水)  <早朝6時前にトレーニングを・・・>
早朝6時前にトレーニングを開始した時、突如激しい雨が音を立てて降り始めた。今日はテニスの予定をしていたので直にテレビの天気予報をみると、降っている雨のことには一切触れずに東京地方は9時から晴れの予報。それでも今日のテニスは止めとした。その代わりでもないが息子の墓参りに行く。月命日に2日遅れであるが、今日は墓周りをたっぷりと掃除する余裕もあった。寺の境内にある天然記念物(東京都指定)のイチョウの下にはギンナン(銀杏)が山ほど落ちている。妻がしばしギンナン拾いをしたが、このご老体の天然記念物イチョウの樹でなく、山門に近い場所にある若いイチョウの樹の下のギンナンを拾った。以前、ギンナンの味に詳しい人が巨大な老木のギンナンより若い元気な樹のギンナンの方がずっと美味しいと教えてくれたのを忘れていない。そうはいっても、本当に樹齢何百年のイチョウのギンナンの味が若いイチョウのギンナンの味に劣るのかどうか、実際に比較したことはない。妻とも一度味を比べてみたいねと話しながら、今日は結局若いイチョウのギンナンばかりを集めてしまった。
 
2017-10-04 九品仏浄真寺にて   右の大イチョウの下にはギンナン
10月6日(金)  <表紙に「饕餮文(とうてつもん)カバー・・・>
表紙に「饕餮文(とうてつもん)カバー<製作中の粘土>」(陶芸)を掲載した。前の饕餮文本体と同じく陶芸教室に行く前にある程度の”作り”をやっておきたいので家で制作したもの。これを乾燥させないように工夫して陶芸教室に持参して仕上げる。明日、教室に行き本体と今回のカバーを合体させて仕上げるので、今日は改めて元になる饕餮文の本物を見に根津美術館まで出かけた。3000年以上前に中国で制作された巨大な青銅器の饕餮文(とうてつもん=ここ)は見れば見るほど巧妙に出来ている。文様はカタログや写真を参考にして粘土版を制作したが、細かな作業をやった目で本物を見ると写真では気がつかなかった新たな文様や微妙なニュアンスの違いがはっきりと見えるから面白い。もちろん、重要文化財であるトウテツモンをそのままコピーする気はさらさらないし、できるはずもないが魔除けの勢いだけはそのまま受け継ぎたい。さて、明日が待ち遠しくなって来た。

2017-10-06 根津美術館庭園にて
10月7日(土)  <昨夜、妻がオペラの切符を・・・>
昨夜、妻がオペラの切符を頂いて出かけて行ったが、いつになくくたびれて帰宅した。演目は蝶々夫人であったという。私は蝶々夫人のストーリーが日本人(東洋人)への偏見に満ちているように感じられ、このオペラは好きではないが、妻はそういうところでなく、音楽や歌が激しすぎて神経が休まることがなく楽しめなかったようだ。「音」を楽しむための音楽会で何故疲労困憊するのか議論するところでもあった。そういえば、私も大きな絵画展で楽しむよりも疲労して帰った経験がある。本来は絵画にしても他の芸術にしても人を癒したり、人に元気を与えるものであろう。一枚の絵から物凄いエネルギーをいただいてその後の生活が豊かになったことも確かにある。感動して元気をいただくか、疲労するか、その差は何だろう。・・絵画(他のものでも同じ)を見た時、共感するケースがある一方で、好みでなく考え方も合わないと感じることがある。その場合、共感できなくても、相手が何をしようとしたのか、細部の表現に目をやり自分の好みを出さないようにする。そうすると少なくとも”疲労”は格段に低下する。ほんの一部でも相手が良いと思うところを見つける、これが対象が何であれストレスで疲労しない秘訣でないか・・。
10月8日(日)  <谷中にでかけて義兄の墓参・・・>
谷中にでかけて義兄の墓参。月命日には少々早いが、毎月の墓参りが恒例となっており、私たちにとっては独特の情緒のある谷中の街を歩くのが楽しみでもある。道路脇にある色々なお寺の境内には自由に入ることが出来るので墓のある寺以外にも寺巡りが出来る。最近はお寺の内外で本当に外人と出会うことが多くなった。今日はあるお寺の境内のお地蔵様を三脚を立てて写真を撮っている外人にも出会った。更に谷中は昔の狭い路地が至るところに残っているところがいい。墓のある寺に行く途中でも幅が1mほどの路地を決まって通ることにしている。その路地の周辺の家で鉢植えや植栽を存分に楽しんでいる様子が見て取れるのもまたうれしい。
 
2017-10-08 谷中風景
10月9日(月)  <体育の日で休日・・・>
体育の日で休日の今日、いくつかの新しい体験をした。一つは「自由が丘女神まつり」を見たこと。自由が丘の駅前でいろいろなイベントが行われていた。駅前広場のステージでアメリカのジャズバンドが演奏していたり、裏通りでは別の踊りをやっていたり、意外性のあるお祭りムードが楽しかった。続けて駒沢オリンピック公園まで行くと体育の日に合わせた無料のイベントが目白押しだった。最近出来上がったばかりの屋内球技場(コラムで何度も取り上げた外部のパイプ式吊り構造により内部の柱をなくした施設)の中に初めて入ると小学生を対象に新体操の体験と一輪車の体験をやっていたので見学。中でも新体操の見本をみせるお姉さん達が素晴らしく上手でしばし見とれてしまった。フラフープやボール、リボンなどで神業のような演技を披露するので感動したが後で日本の女子代表の選手がゲスト出演していることが分かった。新体操は競技で争わないで技を見せるだけで十分に楽しめる。
 
2017-10-09 左は自由が丘女神まつり    右は駒沢公園 (上が完成した屋内球技場)
10月10日(火)  <東京で午後1時頃に最高気温28℃・・・>
東京で午後1時頃に最高気温28℃を記録したという。昨日までの長袖を半袖に着替えてウォーキングには二子玉川の河川敷までいった。往復のバス料金はパスがあるので無料。バスの中でiPhoneでニュースを見たりしていると時間の過ごし方は家にいるのと変わらない。何より2~3km歩くだけでもコンクリートを歩くのと草地を歩くのは脚への感触が大違い。街中でコンクリート上を歩くと膝関節が気になるが草地では心地よさしか感じない。ウォーキングの最後は多摩川の中州の一つ、兵庫島にした。兵庫島は鎌倉末期に多摩川を古戦場として戦った由良兵庫助から名が付けられたというが今は河川敷の公園になっている。
今日の表紙に掲載した「大樹/mieuへの絵手紙」<水性インク>はしばしば訪れる九品仏の大イチョウがモデル。2011年に手に入れた水性インクとガラスペンが見つかったので、「松露」と「山葡萄」という二色のインクを使って描いてみた。

  
2017-10-10  多摩川河川敷 (二子玉川)
10月11日(水)  <「無心」になれない自分の至らなさ・・・>
「無心」になれない自分の至らなさを思い知らされるのが毎回テニス。今日もまた自意識過剰の後に、ただ出来ることを一生懸命にやるしかないと当たり前の結論にたどり着いて楽しくプレーできた。・・話は変わる・・我家のベランダ菜園では雲南百薬草が成功例の一つ。オカワカメとして栄養価の高い野菜を収穫できる他、西日をさえぎる日除けの効果も大きい。今はこの雲南百薬草が花の季節。花の写真を撮ろうとすると蜂が寄って来たので蜂をアップにしてシャッターを切った。どんなことでも良い。やはり”無心”で今日の一瞬を残すことにしよう・・。
2017-10-11雲南百薬草に蜂
10月12日(木)  <パソコンの起動デイスクの容量が・・・>
パソコンの起動デイスクの容量が少なくなっているという警告がでるので、パソコンに保存されている内容をチェックすると不要物が積もり積もっている。バックアップとして別のハードデイスクに蓄えているものも重複してパソコン本体に保存していたり、二度と見ることのないデータ類が山積している。「今日の写真」としてコラムに小さな写真を一枚掲載するとき、元は大容量の画像が何枚も存在する。デジカメの画像は何らかで活用される画像の何十倍、何百倍の容量を保存しているのでないか。それが何年間も蓄積されてパソコンの内部に留まっているから、いくらパソコンの容量が増えたからといっても、まさに塵も積もれば山となる。一昔前にはカメラのネガフィルムを大切に保存した。けれども実際に古いネガを後に利用したとか役に立ったということは皆無でなかったか。いくらネガフィルムにこだわりを持っていても.当人が亡くなるとあっという間にネガも写真も処分される。数年前の不要な写真を処分しながら、この時点で保存に分類した写真もまた再利用されることはないだろうと、空しくなりながらも「捨てる」。コンピュータの場合、いくら不要物が多くても実際の容積をとらないのでまだましと思おう・・。
10月13日(金)  <東京地方は朝から雨・・・>
東京地方は朝から雨模様。昨日の最高気温が29℃であったのが、今日は15℃。長袖シャツを着て今日やったことは大掃除か。昨日に続いてパソコンの中身の大整理である。結局のところ、パソコン(Mac)のハードデイスクのフラッシュストレージが251GBであり、昨日までほぼ240GBを使い、”空き”が少なくなっていたところで、この一日に何と112GBの空きを作った。100GB以上のデータをゴミ箱に捨ててごみ箱を空にするには何時間も時間がかかるのはご存知の通り。まさに年に一度の(私の場合は数年に一度か?)の大掃除だ。一部は別のハードデイスクに移したが、大部分は重複とか不要のファイル(画像)だった。本当にやりたいことは選び抜かれた少しのソフトで用が足りる。容量が足りないのは必要でないものを持ちすぎているからだとみえる。何だか世間のお金も同じでないかと思えて来る。足りない足りないと言いながら実は膨大なムダを溜め込んでいる・・。人間、謙虚にならなければいけないなぁ・・。
10月14日(土)  <表紙に「饕餮文(とうてつもん)方盃」・・・>
表紙に「饕餮文(とうてつもん)方盃」<陶芸作品・素焼き前>を掲載した。今日、陶芸教室でようやく素焼きにだしたのだが、その前にカバーをかけた状態で写真を撮ったもの。素焼きの後、釉薬をかけて本焼成と、完成はまだ先となる。饕餮文に付いては9月23日、28日のコラムでも書いたが(=ここ)、紀元前12〜13世紀に中国で「魔除け」として作られた青銅器(=根津美術館所蔵)のコピーである。饕(とう)は財産を貪る、餮(てつ)は食を貪るの意で、魔物までも喰らう魔除けとして神事に使用されたと云われるようだが、「饕餮」の文字を読むことも書くことも出来なかった。コピー品にしても制作するからには、この際確実に文字を覚えて置きたいので、下に大きく文字を残すことにする。それにしても凄い文字があるものだ。
 
2017-10-14 とうてつ
10月15日(日)  <「鳥威し(とりおどし)・・・>
「鳥威し(とりおどし)」が俳句の秋の季語であることを知った。今朝、6時35分からのNHKテレビ「俳句の時間」での題が「鳥威し」。ゲストが鳥害用品メーカーの社長さんで、その話がまた面白かった。鳥威し(とりおどし)は”農作物に害を与える鳥を,おどかして追い払うために田畑に設けるもの”で、案山子(かかし)や鳴子(なるこ)、空砲など色々ある。社長さんの説明では、案山子(かかし)やカラスの翼、大きな目玉の形をした風船など、鳥(すずめなど)の視力(色や形)に頼るもの、鳴子や空砲など音を出して聴力で警告するもの、更に細長い糸で触覚(羽に触らせる)で追い払うものなど、鳥のセンサーに応じた様々な色々な用具があり、時代とともに変化するという。この俳句番組での一席の句は、「月明に 縊られ(くびられ)垂るる(たるる) 鳥威し」だった。そういえば昔はカラスの死骸をひっくり返して吊るした鳥威しがあった。これが死骸の模造品になった時期もあるが、いまはこれも見ない。それでも鳥から農作物を守ることは今でも一大仕事で鳥との知恵比べは続く。・・「鳥威し」から「鹿威し(獅子威し)」を連想した。こちらの方は本来は鹿やイノシシなどを音で退治しようとした用具であったのであろうが、竹筒に水を引き入れて間欠的に石を打つ音を楽しむ優雅な「ししおどし」として残っている・・。
10月16日(月)  <朝から雨で日中の最高気温13℃・・・>
朝から雨で日中の最高気温13℃の寒さは46年振りとか。外出には厚手のジャンパーを着た。久しぶりにサントリー美術館(東京ミッドタウン・ガレリア3F)にいった。開催中の展覧会のタイトルは「六本木開館10周年記念展 天下を治めた絵師 狩野元信」とある。狩野元信(1477~1559)は室町時代より画壇の中心を担ってきた狩野派の二代目。有名な狩野永徳(1543~1590)は元信の孫、狩野探幽(1602~1674)は永徳のまた孫に当たる。狩野派は戦国乱世の時代に約400年の長期に渡って(室町中期<15世紀>〜江戸末期<19世紀>)画壇に君臨した奇跡的な画家集団だ。元信の時代に狩野派としての絵師工房があり、グループでの制作システムが確立していたという。元信の印が押してあっても元信と同等の技術を持ったグループ内の絵師が描いた例も多い。丁度レンブラントが多くの弟子をかかえて、工房を運営してことを思い起こす。戦国の世に権力者が変わる度に新たな権力者に気に入られて生き延びる狩野派の世渡り術はどんなものだったのだろうと、絵画鑑賞と別の興味も尽きない。
 
2017-10-16 サントリー美術館入口   右は2Fから!Fを見た風景
10月17日(火)  <他人のことは批評できるけれども・・・>
他人のことは批評できるけれども自分のことは見えないのが人間。・・と言ってしまえば一般論でのごまかしになるが自分を第三者の目で見ると他人のことは言えなくなる。先日来、色々な人にメールの案内を出したが、メールの返事に添付された自分の文章を見るとひどい間違いがある。一度でも丁寧に読み返せば気付くであろうに。このコラムにしても毎回推敲が足りないと言われればその通り。鏡の前で朝のラジオ体操をすると自分の無様な姿に愕然とするのは毎度のこと。更に話し方になると録音でもしないと自分がどんなことをしゃべったか分からない(”このハゲー”までは言っていないだろうが)。音楽の演奏家にしても舞台の俳優にしても録音・録画しなければ自己評価は難しいだろう。室町時代の能楽師・世阿弥(1363〜1443?)の言葉に「離見の見」がある。客席で見ている観客の目で自分を見なさいという教え。このために、録音も録画も出来ない時代に世阿弥は「目前心後」を勧めた。目は前を見ていても心は後ろに。自分を客観的に見るには努力がいる。世阿弥から600年を経た現代でも「離見の見」がそのまま通用するのをどうみよう・・。
10月18日(水)  <最近通い始めた陶芸教室の展覧会・・・>
最近通い始めた陶芸教室の展覧会が明日から4日間開催される。この教室で制作したものでなくても展示OKとのことで、私は以前制作した92面体を一点だけ出展させてもらうことになった。今日は降り続いた雨が止み、晴れ間が見えたところで、92面体の搬入作業。92面体は直径が約700〜800mmの大作だ。保護した上で台車に乗せ、これを滑り落ちないように台車に縛り付けるなどして、そろりそろりと会場まで運んだ。会場がたまたま家から普通に歩いて10分ほどのところだったので、このような芸当が出来た。会場での階段なども問題なくクリアして無事設置完了。今回は運ぶのに妻の協力が不可欠だった。感謝!  さて、展覧会場で改めて92面体を見ると、家に置いていた時には気にならなかった細かい欠点が見えてしまう。妥協せずにもっと完璧を期してまとめあげることが出来なかったのかと反省させられるのが展示する大きな意味かも知れない。
下の写真は展覧会会場から歩いて5分の九品仏浄真寺で撮影したもの。息子の墓のある寺の側で展覧会が出来るのも不思議な因縁・・。
2017-10-18 九品仏浄真寺の大木 (カヤとイチョウ)
10月19日(木)  <朝から激しい雨・・・>
朝から激しい雨。冷たい雨が終日降り続き、今日は最低気温10℃を下回り、最高気温12℃(東京)という記録的な寒さとなった。それでも今日から始まった陶芸の展覧会には友人を含めてお客さんが大勢見に来てくれた。私も今日初めて他の人の出展作品を見たがレベルの高さに感心した。どれもが気合いが入っている。手抜きがなく最後の釉薬掛けまで様々な工夫をして独自な仕上げをしている作品が目立つ。この教室で新たな創作を開始できるのは嬉しい・・。下に会場の写真を掲載する。昔のお屋敷の広間が会場なので、空間に趣がある。私の作品「92面体」は大きすぎて、2F、地階の会場に入らないので受付玄関脇のスペースに展示してもらった。
  
2017-10-19 陶芸展にて
10月20日(金)  <陶芸の展覧会で「92面体」・・・>
陶芸の展覧会で「92面体」を展示している。色々な人に見ていただき、その場で説明したり質問にも答えるのだが、人によって何に関心があるのかが異なるので非常に面白い。男性には92面体の組立て方、構造を質問されることが多い。正三角形と正五角形の部材の各頂点に穴をあけておき、穴に針金を通して内部で締め付ける話をすると最後の一枚は内部に手を入れられないのに、どうやって固定するのかを鋭く問われる。内部には補強用の支柱を6本入れている話をすると支柱同士が中心部で干渉しないかを問われる。内部の仕組みを見せるために三角形の板を一枚外して内部が見えるようにしたらどうかとの提案まで受けた。肝心の陶芸の文様や仕上がりについては直接感想は聞き難いが、一人のお年寄りの男性(後で93歳の会員の方と分かった)がことの外感激して話をしてくれた。友人、知人が見てくれたのは勿論嬉しいが、面識がない人からこれほどまでに認めていただいた喜びは格別だ・・。
10月21日(土)  <今日も陶芸の展覧会・・・>
今日も陶芸の展覧会の続き。何と言っても出展している「92面体」を見て喜んでくれる人に出会うとうれしい。”若さを感じる”とか””元気が出る”の言葉は最大の褒め言葉と勝手に解釈をする。今日は夕刻に以前の陶芸教室の仲間が4人まとまって来てくれた。陶芸のベテランの人たちが全般の展示品についてレベルが高いとといってくれたのもうれしい。陶芸仲間とは久しぶりに夕食を共にすることにした。本来は私が地元の案内をしてもいいはずだが、仲間はみな自由が丘の街を良く知っている。ここの店は美味しいと専ら仲間のご推奨にしたがったイタリアンレストランで楽しいひとときを過ごした。
2017-10-21 陶芸展会場の入口にて
10月22日(日)  <今朝のテレビでインドの僧侶・佐々井 秀嶺氏・・・>
今朝のテレビでインドの僧侶・佐々井 秀嶺氏を特集した番組があった。氏は1935年、日本生まれの82歳であるが、今はインドに帰化して仏教発祥の地・インドで仏教を率いる指導者。その割に日本ではその名を知られていないのはどうしてだろう。Wikipediaでは「カースト未満の身分のダリット(不可触賤民)の人々を仏教へと改宗させるアンベードカルのインド仏教復興運動の中心人物の一人」と紹介されている。インドの宗教というと「ヒンズー教(ヒンドウー教)」が思い浮かぶが、ヒンズー教はキリスト教、イスラム教などインド以外の地で発祥した宗教を全て総括して呼ばれることもあるらしい。主には古代インドから続く風習や儀式をベースにした神々を信じる宗派がヒンズーであるが、広義には仏教もヒンズーの一部とされることもあるとか。インドの人口13億人余のうちヒンズー教徒10億人で仏教徒は少数派にしても人口の規模が日本より一桁多い。私は40数年前にインドに滞在していた経験があるがインドは人口が多いだけにカースト制をはじめ複雑な社会構造で一様には語れない。日本生まれの僧侶がインドの下層民に因果応報の仏教を教える苦労は如何ほどであろうか・・。
10月23日(月)  <台風一過・・・>
台風一過。午前中は陶芸展に出品した「92面体」の搬出作業。台車に乗せて家まで持ち帰り、大きな行事が一段落した。午後には久しぶりに晴れ間をみる。太陽とはこれほどに有難いかと感激しながら陽を浴びた。昨日の衆議院の選挙結果が台風情報とともにテレビを賑わす。今回の選挙は、小池百合子氏が民進党からの合流組の一部を”排除する”の一言で流れが変わり希望の党が惨敗に至ったという見方が一般的だ。リーダーの一言で大衆の動向は変わる。都議選では弱気を助ける気位が小池グループの大勝をもたらしたが、傲慢不遜に聞こえる言葉を発する人物を応援することはしない。選挙とか政治に限らず、あらゆる場面で言葉一つが凶にもなれば吉をももたらす・・。
 
2017-10-23  駒沢公園(世田谷区)にて
10月24日(火)  <久しぶりに渋谷の駅前・・・>
久しぶりに渋谷の駅前を歩いた。スクランブル交差点、公園通りなどは以前と余り変わりがないが駅周辺は工事の真っ最中。何年後かには街の景観は一変しそうだ。街を歩いたのは久しぶりだが、毎週何回かテニスのために渋谷の地下を通過する。東急東横線はプラットホームが地下5階、地下鉄銀座線のホームは地上2階。テニスには銀座線で外苑前まで行きたいが、7階分を歩いて乗り換える手はない。東横線から地下3階の半蔵門線に乗り換えて、渋谷を通過し、銀座線には表参道駅で乗り換える。最終的にどのような渋谷駅 ・渋谷の街が出来上がるか期待しよう。渋谷の街では最近は外国人を多く見かけるが、渋谷の後に墓参りに行った九品仏浄真寺で珍しく欧米系の外人と出会った。日本人もほとんど見かけない境内でゆっくりと散策する雰囲気の外人とすれ違い様に会釈・・。
 
2017-10-24 九品仏浄真寺(世田谷区)にて    イチョウの樹の根元には大量のギンナン(銀杏)
10月25日(水)  <今日も終日雨・・・>
今日も終日雨。最高気温13℃(東京)で秋を通り過ぎてしまったような寒さだ。寒さに負けず、今日から一つ何か見方を変えた試みをしてみたいと、「今日のクローズアップ」を掲載してみる。何事も対象をどの角度からみるか、どの部分に焦点を当てるか、細部をみるか、全体を大きくみるかで見方が変わってくる。特別な意図はないが、2〜3日前に掲載した写真をクローズアップしてみると、どうなるかを試みたのが下の写真。もっと大きくクローズアップするとまた印象が変わるだろう。とにかくも、やってみなければ分からないことはやってみよう。Let`s try !
2017-10-25 下はギンナン (昨日の写真のup)
10月26日(木)  <今日のクローズアップ・・・>
「今日のクローズアップ」写真を下に掲載した。1000年、2000年前から変わらない紅葉のクローズアップも良いけれども、私は現代の今しかない人間が造り上げた製品にも感動する。しばらくは、クローズアップを続けてみよう・・。
 
2017-10-26
10月27日(金)  <今日もクローズアップ写真・・・>
今日もクローズアップ写真のテーマを探した。やはり自然界のものより人工物に目がいってしまう。自然の造形はもちろん不可思議な形状や模様に満ち満ちているが、あれは”神”の造形で別格。それに対して人間が造り上げる形も負けずに面白い。解体中や建設中の建築物も時にユニークな形を見せる。
   
2017-10-27
10月28日(土)  <地球は宇宙の極めて一部・・・>
地球は宇宙の極めて一部の”クローズアップ”、手は人間の身体のプローズアップ、花もまた広大な草原に咲く一部と考えると全ての写真はクローズアップ以外の何ものでもない。このコラム欄で”クローズアップ写真”の掲載をテーマにしてみて、こんなことに気がついた。今日も写真を掲載するが、あえて「クローズアップ」と強調することは止めよう。
 2017-10-28
 左右は同じ液晶帯
10月29日(日)  <美術品のクローズアップ写真・・・>
美術品のクローズアップ写真を試みて気がついた。昨日、写真はどんなものでも全て何らかのクローズアップであると書いたが、美術品の場合は作者がはじめから見て欲しい全体枠を決めている。絵画なら絵画の枠の中の全てをまとめて鑑賞するように作者は描いているので一部をクローズアップさせてもそれは作者の本意ではないだろう。ただし、一方では名品とされる美術品はその一部のクローズアップであっても全体に劣らず魅力があることも知った。
 
2017-10-29 14世紀のマリア像など
10月30日(月)  <美のセンスは・・・>
美のセンスは人によって異なるし時代によっても変化した。具象から抽象、筆跡を残さないテクニックからあえて筆力をみせる描き方まで善し悪しというより何が受け入れられたかを歴史は示す。古代に回帰する価値観もあれば常識を打ち破る情熱が求められることもある。歴史に残った美術作品をみていると先日来試みている”クローズアップ”の見方によって、先人達の心意気が生々しく伝わって来ることを実感した。今日もこんな写真を掲載してみる・・。
 
2017-10-30
10月31日(火)  <今日は普通の風景写真・・・>
今日は普通の風景写真を掲載する。これまで”クローズアップ”の写真にこだわってくると”普通”が懐かしくなるから勝手なものだ。普通が一番とまでは言わないが無理をして細部ばかりを見ることもない。前にも書いたが風景の場合、どこで切り取った写真であっても自然界の極一部である。クローズアップであろうが大まかな風景であろうがいとも簡単に「今日の写真」を残すことが出来る写真技術に改めて感謝・・。
 
2017-10-31


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